沖縄、復帰35年!

沖縄県は、今年の5月15日で昭和47年(1972)5月の本土復帰から35年目を迎えようとしています。本土復帰とはいいますが、沖縄県に住む古老たちの思いは、またしても日本に組み込まれてしまったという観方が正しい認識ではないでしょうか。

実際、「沖縄」という語句自体が征服した側(日本)が付けた呼び方です。戦国期の慶長14年(1609)の島津氏による琉球侵攻及び、幕末・維新期の明治12年(1879)の維新政府による琉球処分などヤマトンチュウ(本土側)の一方的な侵略によって出来上がったのが、沖縄県なのです。

武力による威圧によって強制させられた、自発的に日本に属した訳ではない琉球の人々にとってみれば、「沖縄」は植民地の名残、あるいは意識が植えつけられたモノ。本当の解放を実現しなければいけないと感じます。

「琉球」という文言は、14世紀末の琉球人が、主体的に採用した国名です。「沖縄」「琉球」、この2つの呼称は、いまだに沖縄県の中で共存しています。一般的見解では、歴史の時代区分に照らして、琉球処分以前の王国時代は「琉球」、以後の近代期を「沖縄」としています。

しかし、最近の研究では、「琉球」は国名で、「沖縄」は島名と明瞭に区分しています。

「琉球」という呼称の登場は古くは「流求」(『随書』流求伝)や唐の時代の「流求」中国・元王朝の時代の「瑠求」のように存在していましたが、これは中国大陸より東側にある島国全体を漠然と総称したものだったようです。

沖縄自体を指した呼称として登場したのは14世紀の末。中国・明王朝洪武帝から冊封を促す招諭を受け、文中元年・応安5年(1372)に中山王察度が弟の泰期を使節として派遣した際、招諭に対する返書の中で「瑠(琉)球国中山王察度」との明記(『明実録』太祖実録・洪武5年12月壬寅=29日=条)があり、これが正式、かつ公文書に記録された最初の「琉球」の名称となって、以来国名として定着していきます。

琉球王国の海外交易史料である『歴代宝案』(応永31年=1424=の条)にも「琉球国」と明記されており、15~16世紀には「琉球」を国名として、対外・対内文書、碑文などに広く用いていた事がわかっています。「琉球」という国名を中国側が認識し、琉球王国側も利用したという、押し付けや強制を伴ったものではない事実がわかります。

500年続いた「琉球」の国名が消滅したのは、琉球処分の時でした。維新政府が断行した「県名の決定」では、「琉球国沖縄島」を「琉球」「沖縄」に分断。「沖縄」を県名にしたというタテマエと、「琉球」という“中国的な色彩”を意識させるものを払拭するのが狙いというホンネが見え隠れします。

「沖縄」は、史料の初出が応永11年(1404)の『東寺百合ひゃくごう文書』記載の「おきなう船」。次いで慶長16年(1611)、琉球を検地して石高を明記した薩摩藩の『一紙目録』の中の悪鬼納おきなわ島」に見られます。「悪鬼納」の表記から受ける印象からは、差別感や悪意が拭えませんよね。

また、15~16世紀の長門本『平家物語』には「(源)為朝沖縄に流れ着いた」とあり、さらに遡って、8世紀の『唐大和上東征伝』には阿児奈波あじなわとの記載が見えます。

第二次大戦後、アメリカ軍統治下で「琉球」が復活し、アメリカによって「琉球政府」が誕生しました。そして復帰運動の中で、今度は県民自らが「沖縄」を選択し、以後30年以上が過ぎようとしています。

振り返ってみて、歴史的転換期の琉球沖縄には自己主張できる余地がほとんどなかったのが事実です。そして、これからも、東アジアの不安定な地政学上の位置関係からして、大国主義の犠牲となりかねないのが現実です。

私たち日本人にとっては征服民族が償わなければならない課題は山積み状態であり、それが解決しない限り、日本の近代史は終わりを見ないでしょうね。


    

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