中山忠光

中山忠光攘夷過激派の公卿で、文久3年(1863)の八・一八の政変(堺町御門の変)によって政局が一変し、長州藩に逃れ、下関の豪商白石正一郎の宅に身を潜め、藩内の僻地に流寓の生活を続けていました。

元治元年(1864)7月19日の禁門(蛤御門)の変長州藩の情勢も変わり、長州藩俗論派の勢いが強くなり、藩の意見は恭順謝罪に傾きつつあり、幕府の探索も厳しくなったので、三田尻から転々と住居を移し、8月、田耕(豊浦郡豊北町田耕)に来ました。

しかし、この地の庄屋の1人、山田幸八は何時しか刺客に買収され、11月8日の夜遅く忠光を欺いて無腰のまま近くの渓谷に誘い出し、そこに待機していた刺客(長府藩士6名)のために撲殺され、忠光は波乱の20年の生涯を終えます。忠光の遺体はその後綾羅木(下関市綾羅木)の浜に葬られています。

また、山田幸八の子孫はその後狂人が続出し家名断絶しており、付近の人々は天の報いと噂して言ます。やがて、奇兵隊らの手により慶応元年(1865)11月、長府藩は墓の上に社殿を建て「中山社」と称しました。これが中山神社創立の由来です。因みに中山忠光の墓の墓標には「藤原忠光卿」と書いてあります。これは長府藩中山忠光を埋葬した事を隠したかったからだと言われています。

明治になって、華族制度により、旧大名家にも爵位が与えられた際、長州藩本家には公爵が与えられました。分家である長府藩主は立場からいえば伯爵を授けられても良いはずが、子爵止まりでした。或る者がその事を明治天皇に話したところ、「あれは中山を殺したから」と仰られたと言います。明治天皇の母方の叔父が中山忠光で、明治天皇の養育係でもあったので、明治天皇長府藩主を嫌ったんですね。



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posted by 御堂 at 14:11 | Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史:書籍
この記事へのコメント
ゴンちゃさん、こんばんは!

田耕にも行かれたんですか、流石ですね。私は…最近、長州に行けてない…長州閥としては巡りたいトコ山ほどあるのですが!
Posted by 御堂 at 2011年02月19日 03:23
中山忠光卿興味在り。田耕にも行きました
Posted by ゴンちゃん at 2011年02月09日 20:49
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