「百姓」

「百姓」とは一体誰を指すのでしょうか?

江戸時代までの日本社会は、水稲耕作を中心とする農業社会であり、人口の大多数は農民だったと長い間思いこんできました。しかし、「百姓」とは本来、様々な姓を持つ“一般の人々”を指す言葉なのです。中国や朝鮮などでも、官吏以外の一般庶民を「百姓」と呼称しています。

農民に限らず、海の民や山の民、樹木に関わりを持つ人、更には、商人、手工業者など、多種多様な人々をを含めて「百姓」と呼んでいるのです。「百姓」=たくさん(百)の人(姓)、と解釈すれば納得がいきますよね。

1つの例として、能登半島の奥、石川県輪島市に平家の末裔で、平清盛の義弟にあたる平時忠の子孫である時国家という名家を例に挙げます。

時国家は田畑の経営を行っていただけでなく、大規模な廻船交易を行う企業家的な経営者であり、松前から佐渡、敦賀との間を航行する大型廻船によって、大津・京都・大坂を舞台に商取引を行い、巨大な利益をあげていました。

また海浜に多くの塩浜を持って製塩を行い、管理する山林の木材から炭を焼き、さらには近隣の鉱山の経営にも手を伸ばそうとしていた、いわば“総合商社”ともいうべき豪家でした。

この時国家の身分が実は「百姓」なのです。

たしかに300石という石高を持っていましたから、田畑の経営をしていたのは事実ですが、これだけで農民と捉えていたのでは、このような多角経営の姿はまったく浮かび上がってこないでしょう。

また、この時国家の100両もの借金の返済を援助するだけの財力を持っていた芝草屋という親戚の廻船商人は頭振あたまふり(水呑)という身分でした。輪島地方の人口の7割強は石高を持たない頭振(水呑)が集まっていました。

だからといって、交通も不便な貧しい辺境の地だと考えてはいけません。実際には土地など持つ必要が全くなく、専ら商工業に従事したり、海上交通によって富を得た大金持ちの頭振(水呑)たちがたくさん居た都市的な集落だったのです。

そして、こういう状況は奥能登だけではありません。山口県の上ノ関という港町の浦方という集落では、百姓に分類された人たちのうち6割が商人だし、亡土もうと(水呑)の中には農人は全く見られません。また、大阪の泉佐野の百姓で食野めしのという家は、泉屋・橘屋と称して廻船業を営み、秋田から松前まで進出している大商人でした。

こうした例からも明らかなように、江戸時代までの日本社会が「自給自足」の「農村」が大部分だったいうのは、全くの思いこみにすぎないのです。「百姓=農民」という「常識」は捨てましょうね。




下記のブログランキングに参加しています。
記載された内容が目に留まった際には、クリックをお願いします!
人気ブログランキング
にほんブログ村 歴史ブログ

posted by 御堂 at 14:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。