孝明天皇の死の真相

孝明天皇は慶応2年(1866)12月11日頃から少し体調を崩していました。天然痘でしたが、24日頃には殆んど治っていました。

ところが、24日の夜に突然病状が悪化し、25日には血を吐いて夜中に崩御されたのです。孝明天皇の死因については、痘瘡(天然痘)で死んだと発表されました。

しかし、イギリスの外交官などは毒殺されたという話を聞いたと日記に記しており、死後間もない頃から毒殺説が流されていたようです。

孝明天皇が毒殺されたという事実は既に医学的にも解明されています。

孝明天皇の主治医だった伊良子いらこ光順みつおきの当時の日記とメモ(『天脈拝診日記』)が彼の子孫によって発見され、その中身が『滋賀県医師会報』という研究雑誌に発表されました。

その日記とメモの記録に残る孝明天皇の容態から、最初は疱瘡(痘瘡)、これから回復しかけた時の容態の急変は急性薬物中毒によるものとあります。

更に痘瘡自体も人為的に感染させられたものと診ています。

暗殺を図る何者かが、『痘毒』による暗殺失敗を知って、あくまで痘瘡による病死とするために、痘瘡の全快前を狙って、猛毒=砒素(亜砒酸)を混入したというのです。

当時の宮中では、医師が天皇に直接薬を服用することはできません。必ず、女官に渡して、女官が飲ませていました。

当時の女官たちの中で容疑者と推測できる者は、岩倉具視の実の妹である堀河紀子、匂当内侍だった高野房子中御門経之の娘で典侍だった良子が考えられます。

孝明天皇が死ぬ事で一番喜ぶのは誰かという事と、状況証拠から、黒幕はおそらく岩倉具視がだと考えるのが最も有力です。特に堀河紀子孝明天皇に一番気に入られており、毒物を入れるチャンスが十分あったからです。




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posted by 御堂 at 01:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム
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