(トピックス)新春の恒例行事「三十三間堂の通し矢」 秀吉治世に禁止令 古文書発見

「通し矢」の禁止について、前田玄以が妙法院に宛てて送った折紙形式の書状。「弓射」や「御法度」の文字が見え、後半部分には、前田玄以の花押(点線円で囲った部分)がある

新春の恒例行事として、また新成人の腕だめしとして知られる京都・東山七条に在る蓮華れんげ王院(通称、「三十三げん堂」)で催される「通し矢」

現在行われている「通し矢」は「大的おおまと大会」と呼ばれる競技大会で、本堂西側の境内で約60m離れた的を目指して弓を射る。参加者は開催年度に成人を迎え、つ弓道の初段以上を持つ者となっている。

毎年、全国から2000人近くがつどい、制限時間2分で2本を射て、2本とも的に当たれば予選を通過。決勝では的を外した者から脱落してゆき、最後まで的中した選手が優勝となります。

“大会の華”として毎年ニュースを賑わしているのが成人女子の部で、女性は晴れ着姿で競技に挑み、その姿は凛として華麗そのもの―

そんな「通し矢」ですが、その始まりについては、
  • 室町期の『洛中洛外図』に弓を射る者が描かれている
  • 天正年間(1573~1592)頃から流行した
などの諸説が云われています。桃山時代の文禄4年(1595)には関白・左大臣の豊臣秀次が「山城三十三間堂に射術を試むるを禁ず」とする禁令を出しているようですが、この時期は「通し矢」を試みる、程度のもので、射通した矢数を競う、て感じではなかったようです。

一民法○三拾三間ニ制札之儀、木食を以 関白様○被仰出候、如何之由申来、則尤之由被仰出、
  一此堂におゐて弓を射事、かたく可令停止之旨、被仰出者也、
    文禄四年四月 日      民法卿法印
                     玄以
          (『増補駒井日記』文禄4年4月15日条)

この「通し矢」の記録を掲載した『年代矢数帳』(慶安4年=1651=刊)をひもけば、慶長11年(1606)正月19日、「三十三間堂」で100本中51本を射通した尾張清洲藩主・松平忠吉の家臣・朝岡平兵衛が初見のようです。

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「通し矢」とは、「三十三間堂」西側の軒下を南端から北端に矢を射通す競技で堂射どうしゃ堂前どうまえといった別称もあります。

競技方法として、距離や時間、矢数を組み合わせて、主に以下の種目が競われました。
  • 大矢数…一昼夜にどれだけの本数を射通したかを競う
  • 日矢数…日中にどれだけの本数を射通したかを競う
  • 千射…1000本中の通し矢数を競う
  • 百射…100本中の通し矢数を競う
このうち、“「通し矢」の華”であったのが大矢数で、武芸者の名誉をかけて暮六つ(午後6時頃)から一昼夜(24時間)かけて何本の矢が射通るかを競います。

江戸時代前期にブームとなり、有力藩の後ろ盾(例えば尾張藩、紀州藩)のもと、多くの武芸者が挑戦して記録を更新します。

「三十三間堂」の他には、江戸・浅草(火災焼失後、深川)の江戸三十三間堂や奈良・東大寺大仏殿西回廊でも通し矢が催されていました。

しかし、その後は大矢数に挑む者は徐々に減少をみせ、大規模な通し矢競技はほとんど催されなくなりました。そこには、過熱化する競技への批判をする流派もあった訳ですね。

現在では毎年1月中旬(大体、成人式に合わせている―)に「三十三間堂」で「大的全国大会」が開催されているが、遠的競技(距離60m)の形式となっています。

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そんな「通し矢」が豊臣秀吉の治世の16世紀末に度々たびたび禁止されていた事を示す古文書が発見されました。

古文書は秀吉の家臣で京都所司代を務めた前田玄以が、「三十三間堂」を管理する妙法院(東山区)に宛てた書状で、長岡京市の旧家に保管されていたそうです。

於三十三間弓射之由承候、沙汰之限候、連之御法度之上、弥堅可被成停止候、此上押而射申族御座候ハヽ、其節急度可承候、此方より可申越候、此等之旨可被申入候、恐々謹言、
                民部卿法印
                  玄以(花押)
  正月十七日
  妙法院殿様
     御雑掌

古文書を分析した結果、前田玄以が書状に用いた肩書(「民部卿法印」)や花押などから文禄5年(1596)に書かれたものと推定。

書状には「於三十三間弓射申之由承候」との書き出しで始まり、弓矢を射るのを既に禁じているが、それでも射る者があれば通報するよう求めている。「連々御法度」という下りから、繰り返し禁止した事がうかがえます。

「三十三間堂」「通し矢」禁止は、前述した豊臣秀次により文禄4年(1595)4月に禁令を発しており、

隣接する大仏寺(のち方広寺)で太閤秀吉の威信をかけた大仏殿の造営が進められていた時期にも重なる事からかんがみて「(豊臣氏の)聖域(=氏寺)としての領域と考える豊臣政権の何かしらの思惑おもわくがあったはず!」と推測されるようです。

「通し矢」の歴史に詳しく、著書もある筑波大学の入江康平名誉教授(武道史)は「当時の妙法院は「通し矢」に協力的だったという記録があり、禁止したのには別の事情が働いたのだろう」と話されています。

実際、「禁止してもめない人が後を絶たなかったのでは?」とも考えられるようです。

但し、この時期は未だ「通し矢」を試みる、程度のもので、射通した矢数を競う、て感じではなかったようですね。

本格的に流行はやり出すのは江戸時代以降とと云われていますが、すでに桃山時代からブームが過熱していた可能性もあるのではという事です。

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※(参照)馬部隆弘「〈史料紹介〉京都府長岡京市に残る豊臣政権関係の史料三点」(『織豊期研究』14)

この記事へのコメント

  • しばやん

    高校の同級生に弓道部の友人がいて、この「通し矢」に参加していましたが、この「通し矢」が秀吉の時代からあったとはとは知りませんでしたし、江戸三十三間堂や奈良・東大寺大仏殿西回廊でも行われていたということも初めて知りました。
    京都だけが残ったというのも興味深いですね。
    2012年11月22日 20:13

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