小姫が想い父に届け!―「まつだいらつゆ」の遺筆

江戸時代の中期から後期にかけて、因幡鳥取藩の支藩である鳥取新田藩(東舘新田藩=東分知家、明治維新後の朝藩体制下では鹿奴藩、に対し、西館にしやかた新田藩=江戸屋敷が鉄砲洲てっぽうず(現、東京都中央区湊辺り)にあったので鉄砲洲家、維新後の朝藩体制下では若桜わかさ藩と呼ばれる)の殿様に池田定常という人がいました。

池田定常は謹厳実直な性格であると共に文学者としても有名で、その学識と沈毅な人柄から文化人仲間の間でも高く評価される人物で、文人大名と称されます。

その故、毛利高標たかすえ(豊後佐伯藩主)や市橋長昭(近江国仁正寺にしょうじ藩主)らと共に“柳間の三学者”“文学三侯”と称された程で、家督を譲り、隠居して冠山と号して以降も文化人たちと交流を深め、『論語説』や『周易管穂』、『武蔵名所考』や『浅草寺志』など、著作活動や研究に力を注き、当時の儒学や古典、地理などを知る上での貴重な史料と現在も高い評価を受けています。

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さて、お話はこの池田定常(以下、冠山)の16女で末娘にあたる露姫に関するエピソードです―

浅草寺所蔵「玉露童女木彫像」

露姫は、江戸鉄砲洲の鳥取新田藩江戸屋敷で生まれました。冠山は9男16女の子女を得ますが、これらのうち、無事に生育したのは2男4女に過ぎませんでした。

そのためもあってか、ことほか露姫を可愛がっていたそうです。

しかし―

文政5年(1822年)11月27日、露姫は疱瘡(天然痘)がために短かすぎるほどの生涯を終えます。享年6才。

冠山は悲しみにくれたようですが、それにも増して、この文人大名を更に嘆き悲しませる物が、露姫の死後に見つかったのです。

それは、露姫が父や母、兄、そして侍女に書き遺した遺筆でした。

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そこには―

  於いとたから こしゆあるな つゆが於ねかい申ます めでたくかしく
    おとうさま
      まつだいらつゆ


とありました。要約すると「愛しいお父様、もう良いお年なのですから、あまりお酒を召し上がらないで下さい、お願いです!」って感じでしょうか。

冠山は無類の酒好きだったらしく、露姫は父の健康をひとえに気遣っていたんですね。

冠山が最晩年に著した『思ひ出草』という随筆の中で「酒は露児が戒しにより今は唇をも濡さず」(酒は露姫に戒められて以降は一滴も飲まなくなった)と記しています。

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また、母である冠山の側室「たえ」に宛てた辞世の句には、

  まてしはし なきよのなかの いとまこい むとせのゆめの なこり於しさに
    おたへさま
      つゆ


とあり、「むとせのゆめ」(=6歳の夢)を持ちながら短い一生を終えるのは名残惜しい、と無念さを訴えつつも死んでいく自分のはかなさを詠んでいます。

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そして、侍女のたつとときの2人には、

  ゑんありて たつときわれに つかわれし いくとしへても わすれたもふな
    ときさま
    たつさま
      むっつつゆ


と願い、「たつ」と「とき」を「立つ時」、すなわち「自分がこの世を立ち去っていく時」に懸けているところが涙を誘います。

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更に、露姫の死後42日目に兄や姉が故人を偲んで露姫が愛用していた箪笥の引き出しを開けて見たところ、

  おのかみの すへおしら(ず)に もふこてう
  つゆほとの はなのさかりや ちこさくら
  あめつちの おんはわすれし ちちとはは
    むっつつゆ


と詠まれた句に添えられる形で、花や蝶などの絵が描かれていたそうです。遠からず尽きようとしている自分の身の上を花(「稚児桜」)や蝶(「胡蝶」)になぞらえて歌を詠む感性は想像を打に尽くせません。

露姫が遺した遺筆を見て、父である冠山はその才能を惜しみ嘆いた事でしょう。

冠山は亡き露姫の菩提を弔うと共に、その才を多くの友人たちに観てもらおうと露姫の遺筆(歌・発句・手紙)を露姫の筆跡を模し(=模刻)木版刷りにして親類や知人らに配り、供養してくれるよう頼みます。
 
その逸話が世間に広まるや江戸の文人らの涙を誘い、多くの著名人が追悼文や詩歌の類を冠山に贈ります。

なかでも、幕府の旗本で当時の情報収集家で知られていた宮崎栗軒が著した『視聴草みみききぐさ』と呼ばれる書物に露姫の遺筆のレプリカを『視聴草』に綴じ込んだ上に次のように書き添えたのです―

冠山公の息女名は露、幼にして才慧衆児に超越す。惜しいかな六齢にして蘭砕す。老候痛 惜に耐えずその遺筆を刻して親戚にわかたる。余これを見れば覚えず涙襟を潤す(『視聴草』二集之七 四六 松平冠山息女阿露筆蹟摸刻本、幼女遺筆)
冠山はそれらを30巻に及ぶ書物『玉露童女追悼集』としてまとめ上げ、露姫が生前とくに参詣していた浅草寺に奉納し現在いまに伝えられています。

また、全国各地の寺院にも露姫の遺筆と共に木版刷りを送り、供養を願っています。

冠山の友人たちから贈られた詩歌のうち、

冠山と特に親しかった安房北条藩主・水野壱岐守忠照が寄せた詩歌には、

  筆草や 枯野のつゆの 置きかたみ
    忠照


と詠んだといいます。要約すると、「最後に素晴らしい形見を残してくれたのだ、以て瞑すべしじゃないか」かな。

実は水野忠照も冠山と同じように2歳の男児と6歳の姫を疱瘡(天然痘)で亡くしていました。わけても露姫と同じ6歳の姫を亡くしたときの様子を

其の後又ををな子をまうけしが、六才の冬是も同じもがさ(=庖蒼)にて目も閉じぬれば、父は今御城にや今表にや今奥にや、と傍らのらのもとびと(=侍女)に尋ね問ひぬるをや、掌の玉きわる命終わる前の日までも斯かる事止まざりしを、老の今に至るまで耳の底にとどまりぬ。
と書き記しています。「父上は今登城しているのか、今屋敷で執務をしているのか居間にいるのか、と死の前日まで毎日傍らの侍女たちに問いかけていたのが、老いてしまった今も私の耳に残って離れないんだ」と冠山同様、幼い子を亡くした悲しみは忠照には他人事ではなかったのです。

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生まれ変わり伝承「ほどくぼ小僧」と露姫

江戸時代後期、武蔵国多摩郡中野村(現、東京都八王子市)の百姓・源蔵の次男に勝五郎という8歳の少年がいました。

ある時、勝五郎は「自分は多摩郡程久保村(現在の東京都日野市)で6歳で死んだ百姓・久兵衛の息子・勝蔵の生まれ変わりだ」と言ったのです。「生まれ変わり伝承」って奴ですね。

よくよく話を聞いてみると、話の辻褄つじつまが合い、関係者も実在していた事で評判となります。

その噂を聞いた冠山は江戸から八王子まで勝五郎に話を聞きに出掛けます。

冠山とすれば、藤蔵も露姫と同じく疱瘡(天然痘)で亡くなっており、若しかすれば露姫も藤蔵のように復活しないだろうかと期待をかけていたのかもしれませんね。

現在、藤蔵の生家と伝えられる家屋に住む方の話に寄ると、家には露姫のものとされる位牌いはいが伝わっているそうです。

わが子の生まれ変わりを切に願う親心を感じ取れずにはいられませんね!

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