(トピックス)デレーケがもたらした欧米技術 八幡の桂川河川敷で明治期の護岸遺構「水制」見つかる!

護岸から張り出した「水制」の跡。石が敷き詰めらている 「水制」の遺構(中央の石畳の部分)

京都府八幡市八幡茶屋ノ前の桂川左岸の河川敷で、明治時代初期に淀川に造られた大規模な護岸の遺構(以下、木津川河床遺跡)が見つかり、10日、京都府埋蔵文化財調査研究センターが発表しました。

明治期に政府の招聘しょうへいにより、お雇い(御雇)外国人として来日し、淀川一帯の改修工事を手掛けたオランダ人技師ヨハネス・デレーケ(Johannis De Rijke)(以下、デレーケ)が手掛けた可能性が高く、同センターでは「欧米の技術を導入したデレーケの足跡を辿たどる貴重な資料」としています。

桂川で見つかった明治初期のものと見られる大規模な護岸の跡

見つかった木津川河床遺跡は、桂川が宇治川、木津川と合流する地点のやや上流の左岸部分で、河道掘削工事に伴い、同センターが4月から約6000㎡を調査していたところ、岸から約450mにわたって断続的に確認され、こぶし大から60cm程度の石を敷き詰めた構造になっていました。

石積みの遺構は岸から突き出ており、先端部は崩れていたが、岸からの長さが15~20m、高さ4mの平たい石の形状をしたものが計12か所、約30m間隔で築かれていた事が確認できます。

これは「ケレップ」(水制すいせい)(=Krib=オランダ語で「水制」「防波堤」の意味がある)」と呼ばれる突堤状(突起状の土塁)の遺構で、川に向かって護岸の一部を張り出す事で、川の中央部に土砂が堆積たいせきするのを防いだり、つ川を流れる水の作用(浸食作用)から河岸や堤防を守る、さらには水の流れをゆるやかにして流れる方向を変えたり、水の勢いを弱くするなどを目的として設けられる施設で、川幅が広い河川に多く見られます。

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デレーケによる近代的砂防工事の始まり
ペリー来航以後、開国政策により幕末から明治にかけて、日本の近代化を目指す殖産興業政策の過程で欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために御上おかみ―すなわち江戸幕府や諸藩、明治政府や各府県―が招聘し、普及のために雇用したお雇い(御雇)外国人ですが、海運関係はオランダに請うところが大きく、明治5年(1872)にオランダよりコルネリス・ヨハネス・ファン・ドールン(Cornelis Johannes van Doorn)(以下、ファン・ドールン)を招聘し、近代土木技術を導入して、全国各地の港湾及び河川の整備を実施する事になります。

そうした港湾及び河川の整備事業のうち、大阪港の築造の際、ファン・ドールンより招聘されたのがデレーケで、デレーケはファン・ドールンの求めに応じ明治6年(1873)に来日します。

明治初期頃の大阪港は淀川の河口部に位置しますが、その淀川は土砂堆積のために水深が浅くなり、とても蒸気船などの大型船舶が入港できる状態ではなく、水上交通の往来に支障をきたしていました。

当時、京都の伏見港と大阪湾は重要な交通の動脈だったため、導入されたばかりの蒸気船をスムーズに運航させるためには大阪港の築造が急務と考えたのです。

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デレーケによる治山・治水
デレーケがず取り組んだのは、土砂の流出を減らす砂防堰堤や植林でした。

来日翌年の明治7年(1874)から淀川改修の一環として不動川流域(現、京都府木津川市山城町大字平尾一帯)を踏査し、その荒廃ぶりに驚き、大阪港の築造や淀川改修には水源砂防の強化が重要だという意見書を政府へ提出します。

それら上流の山々は古くから平城京や恭仁くに京、紫香楽しがらき宮などの造営や南都寺院の建築資材として伐採が進み、周りのほとんどが崩れ禿げ山の様相を呈していて、大雨が降るたびに大量の土砂流出を繰り返していました。

デレーケの治水観の特徴は、河川を上流から下流まで一体的に捉える事と治山・治水重視である事だったんですね。

その手始めとして淀川に流れ込む河川で2番目に長い流路を持つ木津川の上流にある京都府綴喜郡井手町や相楽郡山城町、あるいは三重県名張市などの森林対策(植林など)を実施します。

現在、京都府木津川市山城町立不動川公園内には、デレーケによって築堤された日本で最初の石積み砂防堰堤である「デレーケ堰堤えんてい」約50基近くが残っており、100年を経過した現在いまもなおその機能を発揮しています。

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デレーケは他のオランダ人工師が帰国した後も、内務省雇工師として明治36年(1903)まで日本に滞在します。

国による洪水防禦工事(高水工事)が法的に整備されたのが、明治29年(1896)。淀川ではこの年から本格的な淀川改良工事が着手されます。

デレーケの淀川治水の考え方(計画書)としては、

・明治20年(1887)『大阪築港並淀川洪水通路歌集計画』
・明治23年(1890)『京都府並ニ大阪府ノ管下ニ於ケル淀川毎年ノ漲溢ニ対スル除害ノ新計画』

が挙げられますが、その内容として、下流部左岸の賀茂川合流部から水無瀬付近までに水路に曲線を多く採り入れ、遊水効果を持たせた新水路を掘削する事を提案します。

しかし、この大規模な新水路建設案は採用されず、より直線的な水路を提案した案が採用される事となり、それと並行して、最下流部の排水能力を向上させるため右岸の拡張引堤工事が実施されます。

こうして淀川の改修工事が始まりますが、そこにはデレーケがオランダから日本に持ち込んだ最新技術がフル活用されます。

デレーケは淀水の流れを川の中央に集め、大型船舶をの航行を可能にするために低水路の維持しようと両岸に「ケレップ」(水制)を数多く造る事で、川の流れを中央部分に集め、大型船舶などが往来する水量を確保したとされます。

当時、大阪・天満橋てんまばしから京都・観月橋までの約40kmにわたる間に393箇所の「ケレップ」(水制)を設置、総延長は約6万6千mに及んだと云います。

その後、舟運の衰退や河川改修工事により、多くの「ケレップ」(水制)が撤去され、現在では大阪市旭区の河川敷などに残る程度ですが、残った多くの「ケレップ」(水制)には、水生植物の良好な生育域となって、多用な河川環境を創り出しています。

それが「ワンド」(湾処)というもので、川の本流とは繋がっていますが、「ケレップ」(水制)に土砂が堆積してできた事で水まりのようになっている地形を言います。まさに淀川改修工事によって生じた産物なんですね。

その「ワンド」(湾処)に水際みずぎわを好む水生植物が繁茂し、また現在は河川環境の変化で殆んど姿を消し、絶滅の危機にひんする淡水魚で天然記念物に指定されたイタセンパラ(板鮮腹)の国内最大の繁殖地としても知られています。

河川環境が重視される現在、デレーケが残してくれた財産価値は高いですよね!

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今回発見された「ケレップ」(水制)は、一帯の改修に向けてデレーケが明治7年(1874)に記した設計図面に描かれており、今回出土した「ケレップ」(水制)の位置とほぼ一致しています。

デレーケが伝えたとされる、里山の雑木から伐採した直径数cm程の細い木の枝である粗朶そだなどを束ねて造った資材を沈め、その上に護岸となる石材を固定する工法「粗朶沈床工法」が使われた形跡も確認されたそうです。

この「粗朶沈床工法」は、これ以前に日本が行ってきた松杭などで水の流れを弱める工法よりも水当たりが柔らかく、流れに対する抵抗力が強いので、効果的なものでした。事実、50~100年以上の耐用年数が実績として存在するそうです。

今本博健・京都大学名誉教授(河川工学)は「角度の付け方など、水制は十分に機能しており、当時の水制の造り方を知る上で参考になる」と話されています。

※(参考)木曽三川、治水との闘い

この記事へのコメント

  • kanageohis1964

    こういう近代の土木遺構も丹念に調べると当時の考え方が色々と見えてきて興味深いですね。維新後に入ってきた治水技術が一絡げに悪し様に言われることも多いですが、必ずしもその様なものではなかったことが窺えると思います。
    2012年10月13日 18:10

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