(トピックス)専門教育機関との連携に地元の知恵 丹後の大庄屋・安久家文書 19年がかりの調査

『安久家文書目録』

阿蘇海を望む高台にある京都府立丹後郷土資料館(ふるさとミュージアム丹後、京都府宮津市国分)―その資料館に隣接し、かやきの旧永島家住宅(府有形文化財)にこの夏、地元の老若男女が集って、蒸し暑さのなか、戸や玄関を開け放った広間でタオルを首にかけて古文書類の判読に励んだそうです。

判読しているのは、江戸時代の丹後田辺藩(現・京都府舞鶴市)の大庄屋おおじょうや安久家あぐけ」に伝わった膨大な古文書類で、日々のお勤めを細かく記した公文書日記『御用触附日記』を含む『安久家文書』

その大半が同資料館に寄託されており、田辺藩の動向や近郊の出来事を知る貴重な史料と云います。

調査は千葉大学文学部の学生や卒業生、それに地元の舞鶴地方史研究会など歴史愛好者たちが参加。

協力し合って、文書資料を読み込むユニークな手法で、これまで19年がかりの地道な取り組みを続けてきた。

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丹後田辺藩は、中世期にこの地方を知行していた細川氏が豊前中津へ転封された後に入封した京極高知が息子たちに分知(=分割統治)した際、三男の高三たかみつを田辺藩主にしたのが起源です。藩の領域は丹後地方の加佐郡全域(137か村)で、現在の京都府舞鶴市、および宮津市由良、福知山市大江が該当します。

この京極氏が寛文8年(1668)に但馬豊岡に転封し、代わって牧野親成が入封。以降、牧野家9代によってに支配され、明治維新を迎えます。

正保年間(1644~48)より領国内の村々は、8組(川口上組、川口下組、中筋組、池之内組、祖母谷組、志楽組、大浦組)の大庄屋に統括されます。

大庄屋は、名字帯刀を許された有力な農民で、村々の庄屋20人程をまとめ、藩とのつなぎ役を担う役割があるのですが、安久家は池之内組の大庄屋を長く務めました。

安久家は応仁・文明の乱(1467~77)以降、上安久村(現・京都府舞鶴市上安久)に居を構えた在地有力者で、明治以降も村長や郡会議員など名望家めいぼうかとして地域のリーダー役を担いました。

『安久家文書』は昭和61年(1986)に丹後郷土資料館に寄託され、目録作成調査が始まりました。平成6年(1994)からは千葉大学の菅原憲二教授(日本近世史)の研究室が参加しました。菅原教授は「古文書が水や泥をかぶっていて文字がにじんだ部分や断簡も多く見られ、苦労した」と当時を振り返られます。

判読した古文書類からは、江戸時代の借金証文から行政文書、絵図、証文、願書、明治時代の年賀状までそろっていて、丹後地域で藩権力を超えた政策がどの範囲でどのように連携していったかがうかがえると云います。

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こうした共同調査などを催した際に一番感じるのは、古文書を読み解くにあたって地元住民の知識と経験が生きる、って事なんですよね。

その地方独特の言語や地元だけで使用している地名の通称、祭り、川の支流の名称…地元に住む人ならではの推察や意見がどれだけ役に立つ事か―

千葉大学の学生も「文書が残っている場所で地域の人と直接話ができ、貴重な体験だった」と話されています。

一方で、ほとんどの調査に参加してきた舞鶴市の女性も「学生に聞かれて、『もっと地域の歴史を知らなくては』と刺激になった」と話されています。

良い相乗効果がありましたね!

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昨今、緊縮財政政策などで自治体史の編纂やこうした古文書の調査も縮小傾向にあります。

しかし、“オラがまちの歴史”を掘り起こそう、という思いが、19年にも及ぶ地道な調査の支えとなったと感じます。

成果となる『丹後国加佐郡上安久村安久家文書目録』(菅原憲二編、千葉大学文学部史学科菅原研究室刊)は第5集まで完成。

菅原教授は来春退官するため、積み残した調査を地元の皆さんが中心になって引き継ぎ完成をみて欲しいですね!

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