(トピックス)毛利氏時代の広島城天守閣の完成年が判明!

毛利氏時代の広島城絵図「芸州広嶋城町割之図」(山口県文書館蔵)

城下町「広島」の始まりは天正17年(1589)4月15日、毛利輝元が太田川の河口部に広がる三角州(デルタ)の上に「広島城」を築城するのに際してくわ初め(=起工式)を行なった日にさかのぼります。

当時、この地域は鍛冶塚庄、平塚庄、在間ざいま庄、広瀬庄、白島はこしま庄から成る「五箇庄ごかしょう」「五箇村」と呼ばれていて、そのうちで最大の面積があった在間庄が築城候補地に選ばれました。

元々、永禄年間(1558〜1569)に輝元の祖父である元就がこの地域を制圧し、勢力範囲を瀬戸内に及ぼし、安芸武田氏を傘下に入れた頃より注目されていて、寒村と呼ばれていた比治山ひじやまに築城しようかとの構想はあったようです。

天正17年(1589)7月17日に井原元尚宛てた毛利輝元書状には「佐東廣嶋」とあり、これが「広島」の初見史料とされます。

天正18年(1590)末頃、堀と城塁が竣工した事で、翌19年(1591)正月月8日には輝元自身も入城して自ら工事の指揮を執ります。

文禄2年(1593)に石垣が完成し、慶長4年(1599)には竣工。これ以後、城下町・広島と在間城(当初はこう呼称していた節もある)が形成されていくのです。
広島城を建てた直接の理由は、毛利輝元備中高松城の攻防以来、懸念されていた和与交渉が成立し、天正16年(1588)7月に主だった家臣を連れて上洛した際、豊臣秀吉が造った当時最先端の城であった聚楽第大坂城つぶさに見て、秀吉が掲げるウォーター・フロント・ネットワークに感じるものがあったのでしょう。これらの城を模して当時まだ珍しかった平地に築こうとしたからだと云われています。

昭和初期の初代広島城天守

→毛利期の広島城天守は、豊臣期大坂城天守をやや小さめに不完全に模倣したものと云われ、その外壁は豊臣期大坂城と同じように黒漆塗りだったようです。
→毛利期の広島城には、西側の外郭はありませんでした。西側の外郭は、関ヶ原以降に移封して来た福島正則が防長二州(周防・長門)ヘ除封された毛利への対策として増築されたようです。
現在の広島城といえば、本丸、二の丸を囲む内堀の範囲だけを残すのみとなっていますが、江戸時代広島城の広さは約90万uもあり、内堀の周りにはさらに中堀、外堀と3つの堀に囲まれ、西は本川(旧太田川) を天然の堀とする広さだったようです。

それを示すように広島市内のあちこちにお城の痕跡が残っています。

例えば、現在も残る「八丁堀」。八丁堀はその名のとおり広島城の堀(外堀)で、現在の東税務署近くから福屋八丁堀本店あたりまで南北に延びていた外堀の長さが「八丁」(約880m)あったからこう呼ばれました。

また、広電(広島電鉄)のバス停留所に現在も残る京口きょうぐち門とは、広島城の城門があった場所で、京口の「京」は京都を指し、京都への往還・西国街道が続いていきます。

さらに、広島城が築城された頃には、現在の平和大通り付近まで海があって、白神社しらかみしゃには波が打ち寄せていた岩礁が残っているそうです。

明治時代以降、外堀自体人々の生活に支障をきたすようになり、八丁堀から西(紙屋町方面)と北(白島方面)の外堀などが埋め立てられ、現在のバス通りだったり、電車通り(相生通り)が構築されていくのです。

― ◇ ◇ ◇ ―

昭和20年(1945)8月6日、毛利輝元によって建てられた初代の天守原子爆弾投下の際、爆発時の熱線に耐えきれたものの、その直後の爆風のあおりを受けてしまい、その衝撃波と圧力によって五層構造の天守のうちの低層階の二層部分の柱が上部三層の重さに耐えきれず倒壊、上部三層は原形をとどめたまま石垣の北東側にずり落ちたため、大量の瓦礫が天守台や堀に散乱したのでは、という可能性を推定しています。

その後、昭和33年(1958)に現在の模擬天守が建てられます。

現在、広島城跡内にある石垣のうち、広島城を築城した毛利輝元の時代の石垣がそのまま残っている部分は多くは発見されず、その後城主となった福島正則浅野氏の時代、あるいは近代以降に本丸に置かれた広島鎮台(第五師団)大本営などが修築して積み替えられたものが多いようですね。

そうした中で天守台の石垣は典型的な毛利期のの石垣といえます。

それでは毛利期の天守台の石垣にはどのような特徴があるのでしょうか―

1.天守台の石垣に用いられている石材には、所々に藤壺フジツボ牡蠣カキなどの貝殻が付着したものが見受けられます。これは、海岸沿いの岩場から石を運んできた証拠ですね。

実際、広島城築城工事が始まって間もない天正17 年(1589)8月の末頃、輝元は家臣たちに石垣用の石材の収集を命じています。

石材の多くが花崗岩かこうがん質を使用するため、広島湾沿岸部一帯でごく当たり前のように搬出でき、近辺でも黄金山(南区)・江波皿山(中区)・比治山(南区)などから運搬したようです。

2.天守台の石垣は、大小様々な石材をを少しだけ加工して積み、隙間部分に小さな石が詰め込まれています。これは、自然石をそのまま積む野面のづら積み」と呼ばれる積み方と積み石の大きさを大まかに揃えて、接合部分を加工すると共に、間に小さな石を詰めて隙間を減らした「打ち込みぎ」と呼ばれる積み方の中間的な手法といわれています。

広島城跡内に「打ち込み接ぎ」で築かれた石垣も見受けられるのですが、石垣に刻印が刻まれていたりするので、恐らくは福島期、浅野期以降に築かれたものとされています。

― ◇ ◇ ◇ ―

昭和20年(1945)8月6日の原爆投下による影響で倒壊した毛利期の広島城天守ですが、遅くとも天正20年(1592)には完成していた事が当時の武将の手紙に記されている事を判明しました。

その武将とは常陸水戸の領主・佐竹氏の家臣・平塚瀧俊で、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役。壬辰倭乱)に出征するため、天正20年(1592)に京都から拠点となった肥前名護屋城(佐賀県唐津市)へ向かう途次で見聞した広島城の石垣や天守「見事なること申すに及ばず候」と書き記しているのです。

手紙は国許にいる者への書簡で、名護屋に到着した直後の4月22日に綴られており、毛利期の広島城天守は同年の4月上旬には完成または、それに近い状態だったと考えられるのです。

この段階で広島城が何処まで完工していたのかは依然不詳ですが、城と城下町の整備は、毛利氏が防長二州(周防・長門)に減封される慶長5年(1600)まで続けられたと考えられています。

ただ、江戸時代の記録に見られる以下に掲げる史料などを見ても天守が創建された年代を記す記録が残っていませんでした―

「曾毛利輝元是地利埋海以築城中架五重之楼 倭俗号天守」(『芸州志料』寛文元年=1663)
かつて毛利輝元がこの地の海を埋めて城を築き、五重の天守を築きました。

「文禄元年より同二年迄御城御普請石垣殿守ハ成就しけれども櫓ハいまた調ハす」(『広島独案内』享保年間頃=1716〜36)
文禄元年〜2年(1592〜93)に城を普請し、石垣・天守は完成しましたが、櫓は未完成でした。

「文禄元年より同二年に至り城普請殿守なれり」(『西備名区』文化元年=1804)
文禄元年〜2年(1592〜93)に城を普請し、天守が完成しました。

「文禄元年より御作事始、慶長四年まて普請作事成就なり」(『知新集』文政5年=1822)
文禄元年(1592)から作事を始め、慶長4年(1599)までに普請と作事が終わりました。

「慶長四年に落成す、又云城楼などは多く毛利氏の時に成けれど、郭の堵墻などは、福島氏の時に至りて、漸く備りたり」(『芸藩通志』文政8年=1825)
慶長4年(1599)に城が落成しました。天守や櫓等の多くは毛利氏時代に完成しましたが、曲輪の城壁等は福島氏の時にようやく整備されました。
建築学の分野では、天守は毛利期に創建されたとするのが共通認識ですが、文献史学から観た時、第一次史料の比較的多い毛利氏の古文書類ですら創建された時期どころか天守の存在を示すものが見受けられないそうです。

ましたや、江戸時代に編纂された古記録類などには、伝聞として天守の創建時期を示しているの過ぎません。

そうした状況のなか、平塚瀧俊という武将が天正20年(1592)5月にしたためた書状に、広島城天守閣に関する記述があったのです。

書状は肥前名護屋の陣中から国許の留守を預かる小野田備前守なる人物に宛てられたもので、日付は5月1日となっています。

内容は、(1)名護屋陣中での近況報告、(2)京都−名護屋間の道中における体験記・見聞記で構成されており、広島城に関する記述は(2)に含まれます。

「帰国した際の土産話としたいが、朝鮮半島への出陣が迫っていて、生きて帰れる保証もない」ので書状で伝える事にした」と前置きし、「三月十七日ニ京都を御立被成候、かヽるふしき(不思議)なる御世上に生合、能時分御供仕、爰元(肥前名護屋)迄見物申事、安(案)之外ニ御座候、路次ろじ中無何事、卯月廿二日ニ当国へ御着被成候」(『名護屋陣ヨリ書翰』『平塚瀧俊書状』)

平塚ら佐竹軍は3月17日に京都を出発、陸路山陽道を西へと進み、4月22日に名護屋に到着しています。広島到着の時期は記されていませんが、佐竹軍と同様に3月17日に京都を発った伊達政宗軍が4月9日に周防花岡(山口県下松市)に到着している事を考慮すると、4月上旬頃と考えられますね。

続いて、広島城に関する部分を見てみると―

@ひろ嶋と申所にも城御座候、森殿(毛利輝元)の御在城にて候、A是も五、三年の新地ニ候由申候得共、更にヽヽ見事成地ニて候、B城中のふしんなと(普請等)ハしゆらく(聚楽第)にもおとらさるよし(劣らざる由)申候、C石かき(垣)、天しゆ(守)なと見事成事不及申候、D町中ハいまた(未だ)はんと(半途)にて候(『名護屋陣ヨリ書翰』『平塚瀧俊書状』)
となっています。それぞれ整理してみると、

@広島という所にも城があります。毛利輝元殿の居城です。
Aここ数年で築かれた新たな城ですが、ことさらに見事な城です。
B城内の普請は聚楽第にも劣らないそうです。
C石垣や天守等も見事であることは言うまでもありません。
D城下町はまだ建設途中です。
となり、これらの事から天正20年(1592)4月上旬段階における広島城天守閣「見事であることは言うまでもありません」平塚が記すに値する状況であり、外観については完成していたか、それに近い状況だったと考えられます。

― ◇ ◇ ◇ ―

上記の平塚瀧俊広島城天守を見分した時期とほぼ同じ頃の天正20年4月11日には、名護屋下向の途中の豊臣秀吉広島城を来訪しています。当時、毛利輝元は既に壱岐に在陣しており留守でしたが、城の留守を預かる毛利氏家臣(安国寺恵瓊など)が秀吉の様子を文書で輝元に報告しており、そこには本丸内での行動が次のように記されています。

秀吉は外濠(堀)にかかる「東の橋」より入城し、「侍町其外」を見て、「地取り似たる」と褒め、さらに内濠(堀)内の一御門や御殿などを見分し、「城取(町割り)の様態」秀吉の予想以上であることに驚き、御殿へ御あかり、内外共に悉く御覧候て「御感斜めならず候」とベタ褒めしたというんですね。

すなわち、御殿へ上がって城の内と外を見渡して、大変気に入った様子で、「殊更広島普請作事様子被御覧候、見事ニ出来、輝元ニ似相たる模様、被感思召候」(『豊臣秀吉朱印状』、『毛利家文書』第875号)と「見事に出来上がっており、輝元にお似合いの様子であると賞賛した」と述べています。

また別の史料には、秀吉「御殿へ御あがり、内外共にことごとく御覧候て、御感ぎょかんななめならず候」(『安国寺恵瓊外二名連署起請文』、『毛利家文書』第1041号)と思った以上にすごかったので思わず仰天したというんですね。

問題なのは―

「御殿へ御あがり、内外共にことごとく御覧候」というのは、

秀吉が見た「内外」とは、城の内外なのか?

それならば、「御殿へ御あが」った先は、すなわち天守閣を指すことになるのでは?
という事で、天正20年(1592)4月には天守閣が完成していたとする説が成り立ちます。

しかし、「御殿」天守なのか?本丸御殿ではないのか?

という考え方もでき、それならば当時はまだ天守は未完成だったという説もある訳です。

― ◇ ◇ ◇ ―

それ故に、平塚瀧俊が見聞した記述は広島城天守について記された初出史料という事になり、改めて天守の完成時期の上限を絞り込む事が可能になったというんですね。

皆さんはどう感じますか?

天正20年(1592)4月11日に秀吉広島城天守に登ったのでしょうか?

それとも、天守の外観はほぼ完成していたか、それに近い状況だったのでしょうか?

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参考)『しろうや!広島城』第32号(平成24年)
※(参考)『しろうや!広島城』第19号(平成21年2月)
※(参考)『毛利輝元と二つの城〜広島築城と残された吉田郡山城』
※(参考)岩沢愿彦「肥前名護屋城図屏風について」『日本歴史』第260号
※(参考)今川朱美・小田雄司「城下町の形成と街道網の関係:広島を事例として」『 広島工業大学紀要研究』第44号
※(参考)『特別史跡名護屋城跡並びに陣跡』3『文禄・慶長の役城跡図集』(『佐賀県文化財調査報告書』第81集所収)


  


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posted by 御堂 at 10:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム
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