大阪に住む大学時代の友人(史学科で同じ中世ゼミだった奴)と「淀屋展」を観に行ってきました。
淀屋とは土木請負、材木業を行い、秀吉や家康の時代に伏見城造営(文禄3年=1594)や淀川堤防の大改修(文禄5年=1596)で財をなし、大坂・中之島を開発します。
大坂夏の陣で豊臣家が滅亡してから意気消沈していた大坂の町ですが、淀屋はその後、徳川幕府から肥料となる干鰯や材木の販売、営業を認められ、「青物市場」を開きます。
また、屋敷前で始めた米市場は「大坂米市場」の始まりで、やがて全国米相場の基準となり、寛永年間には諸藩への金融や特産物の取引を行っており、元禄の頃には日本一の豪商と云われます。
屋敷前で開いた米市場に集まってくる商人のために、屋敷前から米市までの間に架けた橋が「淀屋橋」(元和5年=1619)として有名です。
百万石の大名を凌ぐ財力と云われますが、5代目の時、「贅沢が過ぎる」という理由で、幕府から
淀屋が「大名貸し」などで幕府や大名に貸した借金があまりにも多額になり、淀屋の力を恐れた幕府が強権を発動したのだとか―
ところが、昭和54年(1979)、鳥取県倉吉市の大蓮寺で「淀屋清兵衛」と名乗る人物の墓石が発見されました。
何故、倉吉で「淀屋」を号する人物の墓が見つかったのでしょうか?
つまりは、こういう事だったようです―
4代目の当主の重当は何れ幕府からの圧力がかかる事を予感し、「闕所」処分の35年前から倉吉出身であった番頭の牧田
牧田淀屋は「主家の血を絶やさない」「大坂に旗を掲げる」「決して突出しない」を守り、闕所処分から59年後、大坂・北浜に木綿問屋「淀屋清兵衛」を開いて、
大蓮寺で見つかった墓は、大坂に店を復活させた初代清兵衛の息子「牧田孫三郎」の墓でした。
淀屋はその後、幕末動乱期の安政6年(1859)、大坂と倉吉の店をたたみ、財産の9割を倒幕資金として献じたと云います。(←鳥取藩主池田家が“勤皇派”だった事、現在の天皇家の祖である閑院宮家から即位し、生前から「天皇」を自称した光格天皇の生母が倉吉出身である事、その光格天皇の側近である中山家の忠光は「天誅組暴動」の失敗で倉吉に隠遁していた事、などが挙げられるようですね)
大坂の船場の商人たちは「淀屋の轍は踏まない」と贅沢はせず、慎ましやかに―をモットーとしていたそうですが、淀屋の先見性を見習うべきではないでしょうか。
今回、観覧しましたが、まだ第3回目という事なので、これから発展途上な展示会と言えなくもないですね。
ビルの1階ロビーでのパネル展示。図録とか、パンフレット、リーフレットっぽいのが欲しかったのですが…(唯一、展示資料の説明が書かれたプリントがテーブルの上に置かれてありましたが、説明文章に誤字脱字が多かったです。ちゃんと校正しましょうよ!…「2月堂」(→二月堂)とか「佐太展神宮」(→佐太天満宮)など、掲載させてもらってる以上、マズイでしょ。ホント!次回から気を付けて!!)
さて、淀屋の初代・岡本常安(辰五郎)は、山城国岡本荘の出身だとか―
岡本荘って何処にあったっけ?調べてみなきゃ!
また、八幡の地で商売が許されたので、「淀屋」と号したようですが、淀城主だった永井尚政と関連あるのかな?と思いながら、観ていました。
永井尚政は前老中職で、寛永10年(1633)から亡くなる寛文8年(1668)まで山城淀城主であった人物。
弟の永井直清も寛永10年(1633)から慶安2年(1649)まで山城長岡城主で、しかも慶安2年(1649)〜3年(1650)の間は大坂城代を勤めています。
尚政の三男・永井尚庸も寛文10年(1670)から延宝4年(1676)に京都所司代を勤めています。
―で、帰宅して調べてみたら、やはり岡本淀屋と永井家は縁戚関係にあったようです。
そう考えたら、大坂における淀屋の活躍も存外あり得べき話に聞こえますね。
不思議なのは、延宝2年(1705)に処分が下ってから10年後の正徳5年(1715)に突然
恩赦を受けている事実―
これも何か因果関係があると臭いませんか!―たとえば、一連の処分沙汰が示し合わせたものだったとか…ネ!
※(参考)「淀屋研究会」公式サイト→○
※(参照)淀屋物語 大阪〜倉吉 ゆかりの地を訪ねて(『日本海新聞』連載記事より)→○






