“蛍合戦”―平家物語・宇治拾遺 橋合戦

日本では明治5年(1872)12月2日まで太陰太陽暦たいいんたいようれきを採用していました。

太陰太陽暦とは、通常の太陰暦を採用した場合、12か月を1年とした時に354日となって太陽暦の1年に比べて11日程短くなり、そのずれは3年経つと約1か月のずれとなってしまい、約3年に1回、余分な1か月(=閏月)を導入する事で実際の季節とのずれを補正した暦を言います。

暦が中国から導入された当初は、中国での使用と同じように正月~3月が春、4月~6月が夏、7月~9月が秋、10月~12月が冬としていたようですが、次第に日本風にアレンジがなされ、以下のように区切られます―

 春=立春(2月4日)~
 1月 立春(2月4日)~啓蟄(3月6日)
 2月 啓蟄(3月6日)~清明(4月5日)
 3月 清明(4月5日)~立夏(5月6日)

 夏=立夏(5月6日)~
 4月 立夏(5月6日)~芒種(6月6日)
 5月 芒種(6月6日)~小暑(7月7日)
 6月 小暑(7月7日)~立秋(8月7日)

 秋=立秋(8月7日)~
 7月 立秋(8月7日)~白露(9月8日)
 8月 白露(9月8日)~寒露(10月8日)
 9月 寒露(10月8日)~立冬(11月7日)

 冬=立冬(11月7日)~
 10月 立冬(11月7日)~大雪(12月7日)
 11月 大雪(12月7日)~小寒(1月5日)
 12月 小寒(1月5日)~立春(2月4日)

― ◇ ◇ ◇ ―

ところで、俳諧を詠む時の季語で初夏を表す語の1つに「蛍」がありますが、宇治に古くから伝わる民話の1つに「蛍合戦」という逸話が残されています。

実際、「蛍合戦」とは交尾のために多くの蛍が入り乱れて飛ぶ事を指すのですが、民話では少し趣が異なり、

昔、都で平家と源氏が争っていた時の事、宇治川で平家の赤旗、源氏の白旗が入り乱れた激しい合戦があり、結局平家が勝ちました。

勝った平家は、都で栄華を一人占めして次第に横暴になって、随分と悪行を重ねるようになってしまいました。

こんな平家一門は倒さなあかんと以仁王が諸国に散らばっていた源氏に呼び掛けたので、また平家と源氏のいくさが始まっちゃいます。

とりわけ宇治橋での戦いはすさまじいもので、源氏も平家も共に矢に射抜かれた者、刀で切られた人、深みにはまって馬ともども溺れ死んだ者など…武者たちのしかばねが累々と重なり合って、川の水も真っ赤に染まるほどだったそうです。

この合戦を『平家物語』から「橋合戦」と呼んでいます。

やがて、月日は流れ―

いつの頃か、夏間近の夕暮れ時になると、宇治川では蛍の姿が見られるようになりました。

水草の間から飛び立った二、三の蛍が川面に淡い光を映し出し、さらにおびただしい蛍たちが現れ、蛍火が縦横に交じり合い激しい光の渦になるといいます。

旧暦の5月26日は「橋合戦」で源頼政が平等院内の扇の芝において無念の最期を遂げた日ですが、その夜に現れる無数の蛍の姿は、まるで頼政や源氏の武者たちの亡魂が、あたかも平家に戦いを挑んでいるかのように、低空で乱舞している姿を「蛍合戦」と命名したのだとか―

そして、こうした逸話からゲンジボタル(源氏蛍)やヘイケボタル(平家蛍)と呼ばれるようになったのだそうですよ。

― ◇ ◇ ◇ ―

『都名所図会』より「宇治川の蛍狩り」

平等院から宇治川ラインを天ヶ瀬ダム方面に向かう大津南郷宇治線(府道3号線)の道路の途次、白川と宇治川の合流点付近に「蛍塚」と名付けられた石碑があります。

石碑は平成11年(1999)に建てられたもので、この付近は「蛍ヶ渕」と呼ばれ、「蛍合戦の由来」として、上記の「橋合戦」を掲げて刻まれたものです。

この白川が流れる宇治市白川地区は、平等院の南南東約1・5km、平等院から後鳥羽上皇が藤原氏に建てさせた宇治離宮があったとされる院ノ御所山(槇尾まきのお山)を隔てた場所に位置し、白川と寺川という二河川によって開かれた南北に長い小盆地帯です。

この盆地帯は西側が急峻な丘陵地であるのに対し、東側は棚田や茶畑などの緩やかな河岸段丘が形成されており、江戸時代に著された山城国についての総合的な地誌である『雍州ようしゅう府誌』(「雍州」とは、「都のある地」をさす)にも「山水幽邃の地にて誠に小桃源と謂うべし」と評しているほどです。

白川という地名の由来は、白川と宇治の境界に横たわる折居丘陵群(昔は折居国有林と言ってましたが…)がれき層が浸食してできた丘陵地帯で、随所に白い山肌を晒していましたが、そこから堆積する白砂を洗い清めるほど清流だった事から命名されたものだそうです。

童謡「ほたるこい」にも唄われているように、

 ♪ほう ほう
  ほたる こい
  あっちの水は にがいぞ
  こっちの水は あまいぞ
  ほう ほう
  ほたる こい♪

成虫になった蛍は、水しか飲みません。そして、ゲンジボタル(源氏蛍)は清流に、ヘイケボタル(平家蛍)は満々と張った田植えの後の田んぼに生息するのだとか―

白川の付近はまさに蛍の生息に適した場所だったんですね。

― ◇ ◇ ◇ ―

但し、この白川が「蛍狩り」の地として有名になったのは、江戸時代以降の話だそうで、江戸時代後期にまれた旅行ガイド本ともいうべき『都名所図会』に紹介されています。

ところが、江戸時代以前の「蛍狩り」の名所は別な場所にありました。それについては後日談…

この記事へのコメント

  • 呉服問屋

    はじめまして、とあるニュースを探していて
    こちらにお伺いしました。

    ちょうど平家のお話がありましたので
    コメントを残させて頂きました。

    突然ですが、私は母親の父
    つまり母方の祖父が平家でした。

    厳密に言えば平家直系ではなく家臣の方です。
    菩提寺である安養寺によりますと
    X原長門守XXとその家臣たちだそうで。

    平家ボタルのいわれを始めて知りました。
    戦が元でしたか。
    さすがというかなんというか(笑)
    まぁ、でも顔が浮かんでいる蛍では
    ありませんからね。
    平家蟹よりはいいでしょうね(笑)

    そういえば、御堂様は源氏系ですね。お珍しい。
    失礼ながら源氏系のお方は
    あまりお見かけしませんので。
    その分、源氏系は由緒正しい
    という感じが致します。
    私と戦ったらミニミニ源平合戦になるのでしょうか(笑)

    では、失礼致します。
    2012年10月02日 09:16
  • 御堂

    しばやんさん、こんばんは!
    この記事を書いた直後に、宇治市の植物園と平等院の鳳翔館が“蛍合戦”に関連するイベントを催されたようです。(歴史好きな人たち向けの)新たな観光のイベントとして定着してくれたらいいのに…
    2012年08月09日 21:05

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