津波にも“残った!残った!”第9代横綱・秀ノ山雷五郎関像

宮城県気仙沼市、岩井崎にある秀ノ山雷五郎関の等身大の銅像、平成23年(2011)の東北地方太平洋沖地震による大津波に呑み込まれたものの流出する事はなかった

◇秀ノ山像は残った
昨年3月11日に起こった東北地方太平洋沖地震ですが、宮城県気仙沼市は地震発生当日、大津波が押し寄せ、大きな被害をもたらされます。

陸中海岸国立公園の最南端、岩井崎いわいさきは、太平洋の荒波に形造られた海岸がとても美しく、絶好の観光スポットとして有名です。

しかし、そんな岩井崎も周辺にあった一帯の施設や民家は屋根までもがあらかた津波に呑み込まれて大きく損壊してしまいます。

ところが、そんな岩井崎の海岸べりに建つ力士像だけは、周辺と同じ様に津波に呑み込まれたりしたにもかかわらず、、踏ん張り、立ち続けていました。

その力士像こそ、江戸時代に活躍した気仙沼出身の第9代横綱・秀ノ山ひでのやま雷五郎らいごろうの等身大の銅像なんですね。

秀の山雷五郎関像 秀の山雷五郎関像

昭和63年(1988)に秀ノ山ひでのやま雷五郎らいごろうの功績を顕彰しようと市民有志の手によって、太平洋を望む岩井崎の先端に建立されたそうですが、大津波でそばにあった秀ノ山ひでのやま雷五郎らいごろうを紹介する碑文などは流され、地面も陥没してしまいましたが、等身大の銅像や10トン以上あるという台座は残ってのだとか―

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秀ノ山雷五郎関は、陸奥国本吉郡最知村(現、宮城県気仙沼市最知)出身の力士で、秀ノ山ひでのやま部屋に所属、初め出雲松江藩、後に陸奥盛岡藩のおかかえ力士として江戸時代に活躍し、第9代横綱となります。本名は菊田(のち橋本)辰五郎といいます。

文化5年(1808)に生まれ、次兄が草相撲の大関だった影響から力士を志したという。

仙台に居た3番目の兄を頼りに魚問屋に奉公、15歳の文政6年(1823)、江戸に出て相撲部屋の門を叩きます。

しかしながら、小柄であったためになかなか芽が出ず、一度は諦めて油問屋に奉公に出たのが文政5年(1822)の事。

下野国八木宿じゅく(現、栃木県足利市福居町八木)に在ったこの油問屋は、江戸にも商才を鳴り響かせていた高木源之丞の店で、源之丞は油を搾る辰五郎の怪力ぶりを見て、もう一度、相撲取りを目指せと勧め、江戸の秀の山伝次郎のもとに送り出します。

再び江戸に出て秀ノ山傳治郎親方の門を叩いたのが文政10年(1827)の事。

翌11年(1828)3月、北山辰五郎の四股名しこなで前相撲から取り始め、10月には序ノ口に顔を出します。

天保2年(1831)三段目の時、、出雲松江藩のおかかえ(“雲州力士”)となり天津風と改名。

同3年(1832)閏11月には下の名も雲右衛門とします。

同8年(1837)正月、幕の内入り。しかし、松江藩の財政事情が悪くなったため、翌9年(1838)頃におかかえを解かれます。

翌10年(1839)11月に小結、翌11年(1840)2月には関脇に昇進。陸奥盛岡藩のおかかえとなり、立神と改名。

同12年(1841)閏正月、大関に昇進しますが、翌13年(1842)10月に関脇に陥落し、岩見潟丈右衛門と改名。

同15年(1844)10月再び大関となって3日目の土俵から亡き師匠の跡を襲って秀ノ山雷五郎を襲名します。

弘化4年(1847)9月、39歳の時に横綱に推挙されます。入門してから横綱の栄誉に浴するまで19年の歳月でした。

秀の山雷五郎関が描かれた浮世絵 秀の山雷五郎関の横綱土俵入り

秀ノ山ひでのやま雷五郎らいごろうは、五尺四寸(163・6cm)という歴代横綱の中では一番低い身長で体重も四十二貫(161・5㎏)という体格。

優勝相当成績6回。幕内通算27場所112勝21敗33分2預96休(免許後の江戸相撲での戦績はは24勝7敗10分1預48休)、その姿は多くの浮世絵に残されていいます。

引退後は、四股名のまま年寄となり、第12代横綱・陣幕久五郎ら多数の力士を育てました。

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今年の2月に第45回NHK福祉大相撲が両国国技館(東京都墨田区横網)で開催されましたが、ちびっこ豆力士が大関の把瑠都関らに胸を借りる「ちびっこ力士関取に挑戦」ののコーナーで、秀ノ山雷五郎関の末裔という小学生が登場しました。

小学生の父方の祖母が秀ノ山ひでのやま雷五郎らいごろうの子孫にあたるのだそうです。わんぱく相撲の全国大会にも出場するなど、「将来は横綱になりたい」と角界入りを目指しているとの事。

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第9代横綱・秀ノ山ひでのやま雷五郎らいごろうの銅像は震災後、“大津波に耐えて残った、残った”という感じで報道された事で、被災した人たちに復興への象徴として勇気や希望を与えています。

右手を挙げ、目の前の海に仁王立ちする姿は、第10代横綱・雲龍久吉関が行った雲龍型、第11代横綱・不知火しらぬい光右衛門関が行った不知火型、というそれぞれの土俵入り姿よりも泰然たいぜん自若じじゃくとしていて、まさに“東北魂、ここにあり”って感じですね。

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