カード決済で藩士の支出を管理―下総古河藩主・土井利里の藩政改革

江戸時代の中頃から幕末期にかけて、幕府は勿論もちろん、各地の諸藩において、藩政改革が施され、成功した藩主は“賢君”、あるいは“名君”とたたえられ、教科書などにも太字の重要事項で名をとどめています。

その一方で、教科書に名が載っていない諸藩の藩主たちはただ何も手の施し様もなく、藩の実力を弱めていった―と思わせる様な感じですよね。

大学の専攻科時代の修士課程で課された近世史の研究テーマで私は二宮尊徳(金次郎)による相模小田原藩の藩政改革を採り上げた事があります。

どの諸藩も、誰も手をこまねいていた訳ではなく、改革を実践したが、失敗、挫折していた有様を垣間見る事ができたのを憶えています。

ここに採り上げる下総古河藩主・土井利里も藩政改革に取り組んだ1人であったんですよね。

― ◇ ◇ ◇ ―

宝暦12年(1762)、土井利里は肥前唐津から土井家の家祖である利勝が治めていた領地でもある下総古河こがに転封されます。

その当時、利里からすれば、幕府の奏者番や寺社奉行を務めていたので、古河へ復帰は出世コースへの“近道ルート”という軌道に乗っていたのです。

しかしながら、そうした立身への欲から実力者への“付け届け”はもちろん、古河への転封に要した費用なども含めると、財政難に拍車をかける事は必至でした。

しかも、肥沃な土地である唐津から痩せこけた古河への転封は、同じ表高7万石という数字であっても大きく異なり、古河の年貢徴収量は唐津の半分以下だったのです。

いわゆる、生産力の違いって奴ですね。

そこで、利里は藩政改革を実施する旨を家中に命じます―

その内容は主に、明和3年(1766)から5か年計画の下、
  • 経費の節減
  • 人員整理
  • 家臣の俸給(俸禄米=扶持米)50%カット
など、徹底した倹約緊縮政策でした。

ところが、明和6年(1769)3月に家中の憤懣ふんまんが爆発し、改革は途絶してしまいます。

この年、利里は京都所司代に就任。ついに老中まであと一歩のところまで昇ります。

しかし、この年の古河領内は空前の大旱魃かんばつに見舞われるなど、1万5000石にも及ぶ損害を出してしまいます。

利里は幕府から1万5000両を借用するなど、家中への救済にてますが、家臣たちの窮乏はぬぐえず、或いは脱藩、或いは物乞いに身をやつして農村をうろつく始末…

安永3年(1774)10月、利里は再び藩政改革を断行します。

今度は期間を10年に限った上で、家中に大倹約を奨励し、藩士の豪農や商人への借財を全て藩が肩代わりしてやるのです。

この点では、天保年間に藩政改革に成功した薩摩藩や長州藩と違い、まだ理性がある方だと思いますね。何せ、薩摩藩や長州藩は借金を踏み倒してますから…(笑)

そうした家中の救済を目的として設立したのが「御買物方おかいものかた制度」です。

「御買物方制度」とは、御買物方役所という藩営の施設を通じて、藩士に生活必需品を購入させるシステムで、藩士たちに通帳を作成し、配布します。

藩士たちは、購入希望の品々をそこに記入します。

決まった期日に、御買物方役所の役人が通帳を回収。

通帳に記入された品物を役所が一手に調達し、役所から家臣たちに配布する、というものでした。

現在の生活協同組合(生協)のシステムの先駆といってもいいでしょうね。

代金は、翌月に支給される俸給(俸禄米=扶持米)から差っ引かれる形となり、月賦返済(分割払い)も認められていたと云います。

この藩士たちに与えられた通帳が現在の資本主義経済でいえば、クレッジットカードみたいなものだった感じかな!

むしろ、私が感じて思ったのは、戦時中の配給手帳に近かったのでは?という点です。

江戸時代の日本は社会主義(=統制経済)の下で運営されていました。それが明治維新によって西欧化と自由主義(=資本主義)への転換がなされますが、昭和の初め頃に行き詰りを見せ、やがて国家社会主義(=計画経済)に移行しますが、敗戦によってケインズ理論を基にし、資本主義の弊害是正を考慮に容れられた修正資本主義経済の下で私たちは暮らしています。

配給と聞くと、現在の北朝鮮を思い浮かべる人が多いかもしれませんが、物価の高騰などを抑制する場合に、生活必需品などを全体に行き渡らせる有償配給は決して間違った政策ではなと思うんですよね。

― ◇ ◇ ◇ ―

しかし、このシステムはわずか4か月で破綻してしまいます。

家臣の中には、自分の俸給(俸禄米=扶持米)を考慮せず、支払い能力を超える金額を購入する者が続出したからです。

利里が藩主だった時代に出された触書ふれがきを集録した『諸御触記しょおふれき』には、年末年始の御買物方役所の利用案内が記載(安永3年12月15日条)され、分不相応な買い物についての注意もうながされている。(安永4年2月15日条)にもかかわらず…

差し詰め、クレジットカードによるローン破産というところでしょうか―人間の欲深さが招いた失敗例だと思います。

結果として、またもや家中の反発から、利里の改革は頓挫とんざしてしまうのです。

その2年後、安永6年(1777)、利里は失意の中で亡くなります。

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