(トピックス)「亀井戸」跡復元、「治水公園」として整備

復元作業が進む亀井戸

◇江戸期の最先端「上水道」

香川県高松市の高松丸亀町商店街G街区の再開発に伴う発掘調査で見つかった江戸時代の貯水池「亀井戸」跡の移転復元作業が、旧四番丁小学校跡地(高松市番町)の北側部分において間もなく完了。全国でも早い時期に完成した「上水道」の姿を伝える遺構として、夏以降に一般公開される予定だとか―

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高松市は古来、水質しく、かつ冬夏季の如き往々、涸渇こかつ(枯渇)を免れず…

高松市は気候区分でいえば、瀬戸内型気候区に属するために降水量は少なく日照時間は長いため、年間を通じて温暖な気候です。

但し、夏場に瀬戸内海沿岸特有のなぎや讃岐山脈越えのフェーン現象などの影響で、屡々しばしば猛暑日熱帯夜になる事があります。

降水量が少なく、雨が降ったとしても大きな河川がなく、市街地が直接海に面していて直ぐに海へと流れ出てしまうために水不足をもたらし、旱魃かんばつ害」に見舞われたり、台風が四国付近を通過した際には、場所によっては市街地でも高潮の被害が発生したりするのです。そのため、香川県内では取水制限の実施が毎年の様に起こり、珍しい事ではありません。

また、日照時間が長いために、日照りが続きので高松城下では井戸水に塩分が混じる傾向があるそうです。

それらの対応策としていにしえより施されてきたのが、農地に隣接した土地に大小様々なめ池を造る事だった訳です。

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寛永19年(1642)、その領主としての手腕が不適格とみなされ、幕府より領地を収公された生駒氏に代わって讃岐高松城主となった松平頼重は正保元年(1644)、高松城下の用水を確保するために、大井戸・亀井戸・今井戸など水源7か所を選び出し、地中に配水管を埋めるという本格的な上水道敷設工事を起こします。

「亀井戸」跡とは、江戸時代から明治時代前半にかけて高松城下町の水源として使われていた井戸で、天保年間(1830~44)頃に描かれた『高松新井戸水本並水掛惣絵図』によればその規模は南北約61・7m、東西約18mの貯水池。その名の由来は、亀井戸の名称の由来は湧き水の出る穴がかめの形をしていたので、甕井(亀井)霊泉と呼ばれた事にるそうです。

その構造は地面を掘って石垣で周りを固め、涌水や地下水を井戸にめておき、土管や木樋もくひ箱樋とい、竹樋などで造った配水管を地下約1・5mの深さに埋設し、そこから侍屋敷や町屋などの井戸まで水を導くのです。

主に現在の高松市内東北部に配水していたと云い、その後本格的な近代設備を擁した用水路が高松に導入されるまでの間、人々の生活用水としてなくてはならない存在だったと云います。

正保元年(1644)に造られた高松城下の上水道は、本格的なものとしてはわが国初めてのものと云われており、同じ本格的な江戸・玉川上水より9年も早かったそうです。

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「亀井戸」跡の復元作業は、構造を分かり易く展示するため、水路や石垣を構成していた石材の一部を丸亀町から移設し、貯水池から町へ水を流すための石垣と取水口、導水管を繋げ、直径10mの土盛りにめ込む形で部分的に再現。部材は出土した石をそのまま使うそうです。

11日には作業が完了する予定で、校舎を改修して文化財を展示する埋蔵文化財センター(仮称)の完成を待って同時にお披露目する予定との事。

担当者は「高松の水道史を知る上で重要な遺構。水に苦労してきた先人たちの知恵を感じて欲しい」とおっしゃっています。

一方、丸亀町グリーンの建設地にあった亀井戸水神社(高松市鍛冶屋町)も、完成した建物西側に移徙わたましされました。

かつては“水神様のお祭り”といって盛大に催され、地域コミュニケーションの場だった亀井戸水神社の水神祭は毎年7月6日に開催されます。

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※(参照)2010年7月~9月、G街区再開発エリア内にて亀井戸跡発掘調査が行われました。(高松丸亀町商店街G街区・イベント一覧)

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