(トピックス)八甲田山の雪中行軍 新資料を発見

青森県・八甲田山で旧大日本帝国陸軍の八甲田山雪中行軍遭難事件が起きた明治35年(1902)、別ルートで雪中行軍に挑んだ弘前歩兵第三十一聯隊(38人)の中隊長による報告書や手記などの資料が12日、陸上自衛隊幹部候補生学校(福岡県久留米市)に寄贈されました。

中隊長の遺族が群馬県の生家で100年以上保管してきた遺品の一部で平成16年(2004)の日露開戦100年を機に寄贈を検討していたのだとか―

歩兵第三十一聯隊の報告書の内容などが公表されたのは初めて。

報告書や手記などを書き残したのは、歩兵第三十一聯隊を中隊長として率いた福島泰蔵大尉。

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八甲田山雪中行軍遭難事件とは、明治35年(1902)1月に大日本帝国陸軍第八師団の青森歩兵第五聯隊が八甲田山で冬季に雪中行軍の訓練中に遭難した事件をいいます。

当時、大日本帝国陸軍は日清戦争(明治27年~28年:1894~95)に勝利するも、冬季期間中における寒冷地での戦闘に苦戦を強いられました。次に極東地域で衝突が避けられない状況にあったのがロシアの脅威であり、厳寒地での戦闘が想定されるであろう対ロシア対策として寒冷地での訓練が急務となっていました。

そこで、第八師団に指示が下り、ロシアとの戦争に備えた寒冷地における戦闘の予行演習として雪中行軍をする事となり、第八師団の中で、青森歩兵第五聯隊と弘前第三十一聯隊が立案した計画を基に実演が決定しました。

青森歩兵第五聯隊は、陸奥湾沿いの列車がロシア軍の艦砲射撃によって破壊された際、冬季期間中に「青森~田代~三本木~八戸」のルートで、ソリを用いての補給物資の輸送が可能かどうかを調査する事を主な目的とし、一方、弘前第三十一聯隊は青森歩兵第五聯隊とは別に、弘前から十和田を経て、八甲田山系を西進するルートで雪中行軍を行い、雪中行軍に関する服装や行軍方法などを研究する事を主眼に入れたものでした。

明治35年(1902)1月、青森歩兵第五聯隊、弘前第三十一聯隊の両連隊による八甲田山における雪中行軍訓練が行われ、弘前第三十一聯隊は訓練参加者38名のうち、負傷した1人を除く37人が11泊12日の行程で約224kmを無事に青森に到着し雪中行軍に成功します。

しかし、演習当日の天候が北海道で史上最低気温が記録されるなど、例年の冬とは比べものにならない大寒波が到来していた事など、記録的な大吹雪に見舞われてしまい、青森歩兵第五聯隊が訓練参加者210名中死者199名という大惨事を起こしてしますのです。

この事件は新田次郎氏によって『八甲田山死の彷徨』として小説化され、さらにそれが原作となって映画「八甲田山」が公開されました。

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八甲田山雪中行軍中の行動を記した福島泰蔵大尉の手記

寄贈された資料は、雪中行軍に先立つ露営演習から雪中行軍の実施成果などまでを記した福島大尉直筆の報告書や行軍中の手記、行軍後にまとめた雪中戦闘マニュアル、論文、手紙など計241点。

報告書や手記などからは氷点下12℃での露営演習、岩木山の冬季夜間行軍、下見を兼ねた夏季250km行軍など、極寒での最悪の環境を想定して段階的な準備を積んで、八甲田山に挑んだ経緯を裏付けています。

また、「自然に負ける事はロシアに負ける事」との部下への訓示内容や、雪靴の足先部分を油紙で包んで唐辛子の粉末をまぶすと凍傷防止になる、などの防寒対策も記されているといいます。

報告書は軍に提出された後、福島家に返却され、福島大尉の弟の孫にあたる方が、他の資料と共に群馬県伊勢崎市の生家の蔵で保管されていました。

何れも日露戦を前に作成され、当時は遭難事件を受けた軍批判などを防ぐため「門外不出」とされていたそうです。

◇成功の陰に隠れて~

弘前第三十一聯隊は八甲田山で弘前ルートで入山した38名を率いて雪中行軍を実施し、無事に青森に到着し、参加者全員が無事生還したという形で雪中行軍に成功しました。

その後、軍上層部の箝口令かんこうれいにより、現地で見た事や軍の不利益に繋がる兼ねない言動は全て封印されてしまいます。

なかでも、雪中行軍した兵士たちの道案内で駆り出された地元の一般人たちの悲劇は聞くに堪えません。

弘前歩兵第三十一聯隊が、八甲田山系の最難関を通過後、小峠付近で疲労困憊の案内人たちをその場に置き去りにして部隊だけで田茂木野に行軍して行ったそうです。

必然、道案内に駆り出された人たちは皆、重度あるいは後遺症の残る凍傷を負うなどの被害を受けてしまいます。

その上、遭難の被害を受けた兵士たちには国から十分の補償のあったにも拘わらず、彼らには小額の案内料(1人あたり2円)以外は渡されておらず、何らの補償も謝罪の気持ちさえも示されなかったといいます。

新田次郎氏は『八甲田山死の彷徨』の中で、遭難に至った青森歩兵第五聯隊の雪中行軍を「人体実験」と表現していますが、道案内で駆り出された地元の一般人たちはまさにモルモットとしか見なされなかったのではないでしょうか!

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