(トピックス)戦国末期、能島村上水軍・村上元吉から毛利氏・重臣への書状

村上元吉が毛利氏の重臣・堅田元慶に送った折紙形式の書状書状末尾の元吉の花押。官名の「村上掃部頭」と日付の「十月六日」の文字が見られる

中世・戦国時代末期、瀬戸内沿岸で勢力をふるった海賊・村上水軍を率いて活躍した村上元吉が繋がりの深かった毛利氏の側近に重臣に宛てた書状が見つかりました。

今治市村上水軍博物館(愛媛県今治市宮窪町宮窪)がこの程発表したもので、当時の村上水軍と毛利氏との密接な関係がうかがえる貴重な資料という。

書状は毛利輝元の重臣・堅田かただ元慶に宛てたもので、大きさは縦31・8cm、横50・2cm。折紙おりがみ形式(=紙を真ん中から横長に二つ折りにして、折り目側を下にして右側から文字を綴っていき、それでも書き足りない場合は、折り目を下のまま裏返して続きを書く文書形式。紙を広げた際、天地が逆になっており、掛け軸などに仕立てられる場合、真ん中部分を裁断してぎ足す風になっている)

内容は、毛利輝元の嫡男・秀就の元服を祝う内容で、「素晴らしいこと。大樽2つと折二重ね」を献上した際の添状と思われ、「秀就様」「我等式迄目出度」(=我々もめでたく存じます)としたためられ、末尾に「十月六日」の日付と元吉の署名・花押がありました。

当時の書状には、日付は記されていても年号が書かれていないために年代の特定が難しい書状が多いが、秀就の元服が慶長4年(1599)9月、元吉が関ヶ原の合戦に呼応して伊予国三津浜(現在の松山市古三津)の合戦で加藤嘉明の居城・伊予松前まさき城(現、愛媛県伊予郡松前町)を攻撃し、嘉明の家臣・佃十成かずなりの夜襲に遭って戦死するのが翌5年(1600)9月であるため、慶長4年(1599)10月6日付の書状と特定できるようです。

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村上元吉石像

村上元吉は、瀬戸内沿岸域の芸予諸島を拠点に活動していた村上水軍(海賊衆で能島のしま村上家、来島くるしま村上家、因島いんのしま村上家の三家の連合帯)のうち、惣領的立場にあった能島村上家を率いる村上武吉の嫡男として生まれます。。

天正4年(1576)の第一次木津川口の合戦では村上水軍を率いて、織田信長の水軍を撃破します。

天正10年(1582)、家督を相続しますが、同16年(1588)に発令された海賊停止令により活動が制限され、苦境に陥ります。

慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦の前哨戦として四国に遠征し、阿波国の蜂須賀氏領を攻略しますが、伊予国の加藤嘉明領を攻めた際、戦死してしまいます。

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村上水軍を研究されている山内譲・松山大学法学部教授が鑑定調査を指導され、元吉の花押、時代特有の筆跡や言葉遣い、人物の関係、紙の古さ―などから元吉が発信した書状の原本と断定。村上水軍と取り込もうと企図された村上氏宛ての書状は多いが、村上氏側、なかでも元吉が出した書状は確認されているもので10通に満たない事や、毛利家臣団の一員として親密な関係をよく伝える貴重な発見と評価されています。

村上氏まつわる資料約1300点を所蔵する同館は、今回の古文書発見に合わせて関連する古文書群と共に企画展「特別公開 新発見!村上元吉の手紙」を6月24日まで開催中!観覧無料(常設展示の見学は有料)。問い合わせは今治市村上水軍博物館へ。

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