(書斎の窓)益田出身、日本初の女性眼科医・右田アサの生涯が小説に!―『高津川 日本初の女性眼科医 右田アサ』

島根県益田市出身でわが国初の女性眼科医、右田アサの活躍を描いた『高津川 日本初の女性眼科医 右田アサ』という小説があります。

執筆されたのは、東京都内で眼科医をしている若倉雅登さん。

右田アサは明治4年(1871)年、寺井孫一郎の長女として島根県益田市に生まれます。5歳の時、代々続く地方の名家・右田隆庸の養女となりますが、右田家は没落しかけていました。アサは自分で家事を取り仕切って家運を回復しようとして医学を志し、明治20年(1887)に上京。長谷川泰によって設立されたわが国最古の私立医科大学で、西洋医学による医師養成学校の済生学舎(現、日本医科大学)に入学し、のちに日本女医会の初代会長になった前田園子女史や同県人で津和野町出身の女医・千坂竹子女史と一緒に学び合い、同26年(1893)に医術開業試験(前期・後期)に合格。同14年(1881)に井上達也によって民間の眼科専門病院として開業した井上眼科病院で3年間修業した後に医籍登録して眼科医となり、将来を嘱望され活躍しますが、ドイツ留学を目前にした同31年(1898)8月、肺病のため26歳の若さで亡くなります。

― ◇ ◇ ◇ ―

地元の益田でも右田アサの事は余り知られていなかったのですが、右田アサを研究する方によって「女醫右田朝子之碑」と呼ばれる石碑が正岡子規が眠る大龍寺(東京都北区田端)で発見されたのです。

碑文をしたためたのは、陸軍省医務局長・石黒忠悳ただのり

研究者からの問い合わせで初めて郷土のアサの存在を知った益田市は、アサの子孫や東京益田会などの協賛の下でアサの足跡を辿り、「日本眼科女医第一号・右田アサ展」という展示会も平成14年(2002)に催しています。

― ◇ ◇ ◇ ―

アサは、自分が病気で回復の見込みがないと判った時に残した遺言の中で「自分の眼球を摘出して病院に保存し、眼科研究の資料としてして下さい」と国内初の眼球献体をした事でも知られています。

物語では、右田アサと共に現代の女性眼科医も登場させ、現在いまもなお潜在する女医蔑視、差別と闘う姿や眼科医療が抱える問題の数々をモチーフに、高津川で2人が時空を越えて出会うなど、2人の人生が重なり合う様に描かれています。

若倉さんは、アサが勤めた井上眼科病院の名誉院長。「アサは苦学して、誰も踏み入れた事のない分野に挑戦しました。それだけに夭折ようせつしたのが残念で、小説を書く事で彼女を生き返らせたかった」とおっしゃっています。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参考)益田市総務部「日本の眼科第1号右田アサの碑発見」(『広報ますだ』2001年2月15日号)

この記事へのコメント


この記事へのトラックバック