(トピックス)戦国大名・浦上村宗、下剋上の証を示す古文書、220年ぶり現存確認!

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浦上氏平安時代中期に活躍した紀氏きのし長谷雄はせおの派流か、または『土佐日記』を記した貫之つらゆきの派流の子孫と云われ、播磨国揖保郡浦上庄(現、兵庫県たつの市揖保町一帯)が苗字の発祥地と伝えられています。

『赤松家播備作城記』に依れば、浦上庄内にある中臣城の初代城主として「紀秀村」という人物の名が伝えられている事、また浦上則宗がその存命中に著したという『浦上美作守寿賛』に依ると、少なくとも系譜上では自らの出自を紀貫之の後裔であると位置付けていた節がみられます。

浦上氏の中で、確かな古文書にその名が現れたのが「浦上新左衛門尉為景」(『八坂神社文書』)で、彼は播磨国浦上庄の地頭職を押領(『大徳寺文書』)しています。

南北朝の動乱期になり、赤松氏が播磨守護職として勢力を伸ばすと、浦上氏も次第にその麾下に属し被官化していくのですが、浦上氏赤松氏に従って戦場で功を挙げ、次第に赤松氏の信頼を得ていきます。

正平17年・貞治元年(1362)、山名時氏が備前国に侵攻した際、浦上七郎兵衛尉行景が備前国守護・松田信重と共に防戦に努めている事が『太平記』に記載されており、赤松氏が備前国守護職に補任されると、行景は守護代職に抜擢されます。

これが播磨国を本領とした浦上氏が隣国の備前国へ勢力を伸ばす足掛りとなるのです。

これ以降も浦上氏赤松氏の有力被官として活躍する事になり、浦上帯刀たてわき左衛門尉助景は守護代職に加え、赤松義則室町幕府侍所頭人に就任するや、所司代に取り立てられます。

その後、赤松氏は嘉吉元年(1441)、満祐嘉吉の乱を起こし没落の一途を辿たどっていくのですが、浦上氏を含めた遺臣たちが満祐の弟・義雅の孫・政則を盛り立て、禁けつの変の功により御家再興を成し遂げます。

応仁元年(1467)、応仁・文明の乱が起こると、赤松氏は東軍方(細川勝元)に加わり、浦上則宗が主家再興に活躍した重臣の1人として、赤松氏の勢力勃興に尽力し、失地回復に精力を注ぎます。

乱終息後、改めて赤松政則に播磨国・美作国・備前国の守護職に補任されると、則宗は備前国守護代職となり、さらに文明3年(1471)に政則侍所所司に任ぜられると、則宗所司代に任じられて実務を掌り、加えて同13年(1481)、政則が山城国守護に補任されると、則宗は守護代職に任ぜられるのです。

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応仁・文明の乱による世情の変化は日本各地に広がり、下剋上の風潮が見え出します―

赤松氏の領国も例の漏れず、文明15年(1483)、備前国の国人こくじんが備後国守護職・山名氏と結んで、赤松氏の備前国の守護所・備前福岡城を攻撃してきます。

赤松政則山名氏のもう一方の守護職地である但馬国を攻め上がりますが、結果大敗を喫して姫路に逃げ返る始末で、挙げくには福岡城も陥落するという、様態をさらします。

さらには、政則を追撃した山名氏の軍勢が播磨国内に乱入したため、以降内戦が数年の間続く事になります。

こうした政則の失策は国人衆の離反を招く事となり、翌16年(1484)、浦上則宗が帰国するや国人衆の多くが則宗の下に参集するのに対し、赤松氏譜代の家臣たちは山名氏と組んで政則を見限り、赤松政秀(龍野赤松氏)を盟主と仰ぐなど赤松氏は大きく分裂してしまいます。

政則の周辺には付き従うものは僅かな者しか残らず、政則は播磨国を追われ、和泉国堺へと奔ります。

浦上則宗は有力諸将と図って、政則を廃する様に画策しますが、室町殿足利義政の仲介により、政則浦上氏らは和解が成立。西播磨を征した山名氏との攻防に精力を注ぎ、播磨国・備前国・美作国の旧領を回復するのです。

政則の死後、浦上則宗は養子である義村を擁立するなど、家中での権勢は主家である赤松氏を凌ぐ程でした。

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浦上則宗は文亀2年(1502)に没し、後継には先に養嗣子としていた甥の宗助の子・村宗が家督を継ぎます。

一方でようやく政務に参加するようになった赤松義村は、新しい体制を敷こうと企図します。

それは、浦上氏などの宿老の専横を抑制し、義村自身の発言力を強化しようとするものでした。

義村は成長するにつれ、家中で大きく勢力を伸ばした守護代・浦上氏おそれを抱き、自立への機会を窺っていたのです。

永正15年(1518)、こうしたあからさまな排斥行為に浦上村宗義村に反発し、更にはもう1人の宿老である小寺氏とも対立を深めてしまい、小寺氏らの讒言を採った義村によって、出仕を差し止められ、居城の三石城に退去します。

義村は追い打ちをかけようと、村宗の討伐を企図して自ら兵を率いて備前に出陣し、三石城を囲みます。

この時、村宗方には備前・備中・美作三国の国人衆が集まり、義村に戦いを挑み、攻城戦を乗り切ります。

翌16年(1519)にも赤松義村は再度浦上氏を攻め立てますが、村宗の重臣・宇喜多能家らの活躍で撃破し敗走させます。

村宗はこの勝ちに乗じて播磨国に攻め入り、翌17年(1520)、赤松義村を捕え、隠居させ、跡目を僅か8歳の才松丸(のちの政村晴政)を形ばかりの守護として擁立します。

翌18年(1521)正月、義村足利亀王丸(のちの第12代将軍・義晴)を奉じて再挙しますが、村宗はこれも撃破。義村を捕縛して播磨の室津に幽閉。元号が大永に変わった直後の大永元年(1521)9月に義村を暗殺します。

こうして、村宗は名実ともに、備前国・美作国・播磨国(西播磨)三国の支配権を掌握する事に成功し、戦国大名への道を歩み始めるのです。

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ちょうど、そうした時期の浦上村宗古文書が見つかったそうです。

浦上村宗が大永元年(1521)に発給した古文書の様で、国の重要文化財・旧大国家住宅(岡山県和気町尺所)の古文書群の中から発見されました。

この大国家とは、江戸時代に酒造業などを営んで財をなし、多くの知識人たちが出入りして文化交流するなど、地域のサロン的な役割を担っていたようですね。

古文書には、村宗赤松政村(晴政)の命令を伝える形で、播磨、備前、美作の三国で通行税を免除するとの内容が記してあり、政村(晴政)がまだ幼少なため、村宗が三国の実権を掌握していた事を示す第一級史料の価値があるのだとか―

のちに備前国岡山藩士・斎藤一興が寛政5年(1793)に編纂した古文書集黄薇きび古簡集こかんしゅうの中で「尺所某氏」所蔵の古文書として記載されており、三国の情勢を語る際には必ず引用される古文書だったようです。

長らく所在不明となっていましたが、和気町が2009年度(2009・4~2010・3)から岡山大学と協力して進める大国家文書解読事業で発見され、約220年ぶりに現存が確認された事になりました。

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※(参考)渡邊大門『戦国期浦上氏・宇喜多氏と地域権力』(岩田書院、2011)


 

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