石井筆子の生涯を観よう!

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石井筆子という女性の名前を聞いた事がありますか?

明治から大正昭和戦前期にかけて、女性の社会的地位と知的障害者の向上にその身を捧げた人物です。

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石井筆子幕末期の文久元年(1861)、肥前大村玖島(現在の長崎県大村市)で大村藩士渡辺清の娘として生まれます。父である幕末期から維新期志士として行動し、明治政府では、福岡県令や元老院議官などの要職に就き、男爵に叙せられた人物です。

筆子は明治4年(1871)、11歳で上京し、翌5年(1872)、開設された東京女学校に入学。また、商法講習所(現在の一橋大学)の教授として来日したウィリアム・ホイットニーの娘、クララの英語塾にも通います。

小さい頃から外国語が堪能(筆子は英語、フランス語、オランダ語が堪能だったと『ベルツの日記』にも紹介されています)であった筆子は語学力に磨きをかけ、明治12年(1879)、来日した前アメリカ大統領グラントに拝謁した際、英語で流暢に会話したので、彼が驚いた―というエピソードが残っています。

明治13年(1880)、東京女学校を卒業すると皇后(昭憲皇太后)の命により津田梅子山川捨松らとともに日本初の女子海外留学生として約2年間ヨーロッパに留学します。

留学先で色々なものを見聞した筆子は「日本女性を永続的に助けるためには教育が必要」だと考え、自分はその使命を担うのだと決意を固めます。

当時は、家父長的家族制度の下、男性優位における女子教育は良妻賢母養成が主流で、自立のための教育とは程遠かったのです。

帰国後の明治18年(1885)、筆子は女子教育の振興をはかるため、津田梅子と共に開校したばかりの華族女学校の教師となります。その時の教え子には、九条節子(のちの貞明皇后)がいたそうです。

また、鹿鳴館の舞踏会にも度々参加して“鹿鳴館の花”」と評判された様です。

更に明治21年(1888)には、「婦人教育ノ普及ヲ計リ其徳操ヲ養成スルヲ目的トス」る民間の組織「大日本婦人教育会」を結成し、諸活動に奔走します。

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家庭での筆子は留学から帰国後の明治17年(1884)に同郷の旧大村藩士で農商務省鉱山局の技師であた小鹿島果と結婚し、3人の娘の母となりますが、二女、三女はは虚弱児であったため早逝、残る長女も知的障害がありました。

さらに夫の果も病弱な人で明治30年(1897)に結核で亡くなり、筆子は若くして幼い子供を抱え未亡人となります。

明治31年(1898)には文部大臣の要請で津田梅子と共に渡米し、「婦人倶楽部万国大会」の日本代表として出席します。この時、シカゴ・デンバーの棄児院などの社会事業施設を見学。アメリカの女子教育と福祉の状況を見識して帰国した後、華族女学校を退職します。

同年、「大日本婦人教育会」の雑誌に「思ひ出つるまヽに」という論考を発表します。

男女の此世にあるは云うまでもなく、同等の権利を具備するものにして、男子の為に女子あるにあらざるは、なお女子の為に男子あらざるがごとし
後に婦人運動を展開する平塚雷鳥『青踏』に先立ち、人権思想に基づいた男女平等論を訴えかけています。

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しかし、封建社会な考え方を引きずったままの男性と、見せかけの文明開化の下で自立できないでいる女性という現実に筆子は行き詰まりを感じていたのです。

そうした時期にある男性と出会います。それが、石井亮一です。

石井亮一は肥前鍋島藩出身で、明治24年(1891)、濃尾大震災で被災した20人余りの孤児を引き取り、日本初の女医である荻野吟子の医院に「聖三一孤女学院」を設けます。

この孤児たちの中に知的障害児(当時の言葉で「白痴児」)がいたことがきっかけとなって渡米して知的障害者教育をを学んで帰国し、知的障害児専門の治療教育施設にすべく、施設の名称を変更し、日本で初めて知的障害者のための施設「滝乃川学園」となります。

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筆子亮一が知り合ったのは、明治20年(1887)頃で、当時2つの女学校を掛け持ち多忙だった筆子は2人の子を亮一に預けます。

筆子も娘を滝乃川学園に預けていた経緯から、学園に対し支援を惜しまなかったようです。そうしているうちに、寝食を忘れて障害児の教育にあたる亮一の人間性に惹かれていきます。

明治36年(1903)、筆子は周囲の反対を押し切って、石井亮一と再婚します。

以後、筆子は学園に対して創立者の妻として、女子教育者として、そして運営経費などの捻出に尽力するかたわら、付設の保母養成部の教師として粉骨砕身の精神を貫きます。

大正9年(1920)、火災事故で園児を助けようとした筆子は片足を負傷し、半身麻痺の不自由な身となります。

筆子亮一夫妻は責任感から学園の閉鎖を考えますが、嘗ての教え子であった貞明皇后などの励ましで学園を復活に導きます。

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昭和12年(1937)に亮一が没してからは筆子は第2代園長として事業の発展に尽くすのです。

そして、筆子は昭和19年(1944)、学園の一室で関係者に見守られながら息を引き取ります。

亡くなる直前まで、閉じられた目からは拭っても拭っても涙が溢れ出たと云います。想いを貫き通した生涯ですね。

筆子亮一夫妻が心血を注いだ学園は現在も社会福祉法人滝乃川学園として息吹いていますよ。

そうした石井筆子の生涯に脚光を浴びせた映画が2本公開されます―

  • 無名むみょうの人~石井筆子の生涯~」→

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  • 「筆子・その愛―天使のピアノ―」→
の2作です。石井筆子亮一夫妻の想いを感じてみませんか!

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参考)日本の知的障害者福祉の創始者石井亮一・筆子夫妻の偉大なる事績→
※(参考)佐賀鍋島藩 石井家→


この記事へのコメント

  • 御堂

    カーママさん、こんにちは。

    僕もこの人を知るまでは津田梅子や山川捨松しか知らなかったんですよね。こういう先駆者が居たってことをもっと学ぶべきですね。

    僕も前職の大学職員の時にそううつ両方のダウン症の学生や脳の筋肉萎縮症の学生に対応したという体験がありますが、やはり精神的にくたくたでした。(おかげでこちらが精神的に滅入って結局辞めることになりましたが…ご家族の方の苦労を考えたらちっぽけな事ですけどね!)

    カーリング、チーム長野…生ライブで試合中継を観てましたが、何とも…でも、この負けを次へつなげよ!って感じです。
    2007年02月04日 18:04
  • カーママ

    こんばんは。この件は今国会の御偉いさんがどれだけご存知なのでしょうか。!私も津田塾設営の津田梅子さんしか知りませんでした。大親友の子供もアスペルガー症候群で、少なからずも知識は多少あります。また、少し環境が変化するだけで登校拒否になる人はその傾向がある事も勉強しました 。もっと、詳細を知りたいと思います。カーリング、チーム長野。ここ一番が、、。でも、応援します。
    2007年02月04日 00:59

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