(トピックス)「高松、松山を征伐すべし」 明治天皇、土佐藩に命令 御沙汰書見つかる

発見された朝廷文書のうち、戊辰戦争時の慶応4年正月11日付土佐少将宛明治天皇御沙汰書

慶応4年(1868)正月3日に徳川幕府第15代将軍・徳川慶喜の「討薩表」を掲げた旧幕府軍が鳥羽・伏見の戦いで火蓋ひぶたを切った事で始まった戊辰戦争で、直後の正月11日付で明治天皇が土佐藩第16代藩主・山内豊範とよのりに対し、幕府側についた四国の諸藩の追討を命じた(※1)朝廷文書・御沙汰書(※2)の原本などが見つかったと、土佐歴史資料研究会が発表しました。

※1 幕府側についた四国の諸藩の追討を命じた
明治新政府は慶応4年(1868)正月7日、徳川慶喜を朝敵とする追討令(「征討大号令宣布ノ事」『岩倉公実記』)を発し、10日には慶喜の他に幕府閣僚27名を「朝敵」とし、官職の剥奪や京都藩邸の没収などの処分を行使します。

「朝敵」となった者のうち、主っだった者が、

 第一等-徳川慶喜(将軍)
 第二等-松平容保(陸奥会津藩主、京都守護職)
     松平定敬(伊勢桑名藩主、京都所司代) →官位剥奪
 第三等-久松松平定昭(老中・伊予松山藩主) →官位剥奪
     酒井忠惇(老中首座・姫路藩主) →官位剥奪
     板倉勝静(老中次座・備中松山藩主) →官位剥奪
 第四等-本荘松平宗武(丹後宮津藩主) →入洛禁止
 第五等-戸田氏共(美濃大垣藩主) →入洛禁止
     松平頼聰(高松藩主) →官位剥奪

などで、その他にも、

 酒井忠氏(若狭小浜藩主) →入洛禁止
 稲垣長行(志摩鳥羽藩主) →入洛禁止
 大河内松平正質(老中格・上総大多喜藩主) →官位剥奪
 内藤政挙(日向延岡藩主) →入洛禁止

が挙げられます。

※2 朝廷文書・御沙汰書
天皇の指示や命令を表す用語として、詔勅しょうちょく詔書しょうしょ勅書ちょくしょ)があります。詔勅しょうちょくは「被仰出」「御沙汰」の文言と共に太政官などを通じて示されます。

みことのり=天皇の命令、その命令を文書形式にしたものを詔書しょうしょという。

律令制度下においては、公式令くしきりょうにその書式が定められおり、詔は重要事項の宣告に用いられ、天皇は署名せず、草案に日付(御画日)を書き、成案に可の字(御画可)を書きました。公卿(大臣・大中納言・参議)全員の署名を必要とし、詔書は天皇と公卿全員の意見の一致が必要であり、手続きが煩雑なため、のちには即位、改元など儀式的な事項にのみ用いられた。

ちょく=天皇の命令、その命令を文書形式にしたものを勅書ちょくしょといい、口頭伝達によるものを勅語ちょくご(おことば)といいます。

勅書ちょくしょには、通常の政策決定に用いられるものや、緊急事案を伝達する際に用いられるものに分けられます。

勅書ちょくしょへは天皇の署名や公卿等の連署は必要なく、律令制度が形骸化するにつれて、天皇の意思表示は女房奉書にょうぼうほうしょや御沙汰書など非公式の形で伝えられるようになっていきます。

この場合、御沙汰書とは、勅書ちょくしょに該当しますね。

御沙汰書は、高知県東部に住む歴史愛好家の男性が所有していて、今月初めに同研究会に鑑定を依頼。

前佐川町立青山文庫館長の松岡司さんが鑑定した結果、原本と確認されました。


明治天皇が「土佐少将」(=土佐藩第16代藩主・山内豊範)に「(幕府を助ける)高松藩や伊予松山藩を征伐すべし」と命令した御沙汰書。「徳川慶喜反逆」などの文字も見える

御沙汰書奉書紙ほうしょがみ(=こうぞを原料とした厚手の紙で、黄葵の根や白土などを混ぜ合わせた事でより強度と厚みをましたものになっている。室町幕府から命令伝達の公文書として採用された)に書かれており、縦22cm、横110cmの切り紙で、「土佐少将」(=豊範)に「(15代将軍)徳川慶喜の反逆」に味方する「讃州高松」(高松藩)、「予州松山」(伊予松山藩)の両藩と、川之江などの幕府直轄領を「征伐」あるいは「没収」し、功績を速やかに報告するようにせよ、との指示がなされ、但し書きでは、徹底した取り調べと人心の安定も求めています。

実際、土佐藩は板垣退助が高松城に出陣するなど各地に出兵しますが、何れも戦争にはならず、無血開城(※3)しています。

※3 土佐藩は板垣退助が高松城に出陣するなど各地に出兵しますが、何れも戦争にはならず、無血開城
慶応3年(1867)12月9日の王政復古の大号令の後の小御所会議で公議政体派から倒幕派へ転換した土佐藩が中心となって、丸亀藩や多度津藩の協力の下、高松城下に進駐します。

讃岐高松藩は、宗家である水戸藩が勤王派にもかかわらず、藩主・頼聰の正室が大老・井伊直弼の娘という立場から、鳥羽伏見の戦いでは旧幕府軍ににくみしたため、戦後、新政府から朝敵とされ頼聰は官位を剥奪されます。

戦意を喪失した高松藩側は、1月18日に家老の小河おごう又右衛門久成と伏見の戦いの際に総督を務めた小夫おぶ兵庫正容まさしずの2人を切腹させ、20日には頼聰自らも謹慎して恭順の意を示した事により赦免されます。

伊予松山藩は、徳川家康の母(伝通院)の再婚先であった事から、特に松平の姓(久松松平家)を与えられました。身分としては譜代大名ですが、江戸時代後期になり、御三卿である田安徳川宗武の子を養子にした事から親藩として扱われます。

藩主の定昭は幕府の老中も務め、そのため佐幕派として、第二次長州征伐(四境戦争)には先鋒として出兵。周防大島口の戦いにおいて、住民への略奪・暴行・虐殺を行った事で長州藩の恨みを買っていて、鳥羽・伏見の戦いでは摂津国西成郡曾根崎村の梅田墓地か梅田道周辺(現、大阪市北区曾根崎、梅田一帯→とある書物には、梅田村と書き記したものがありますが、江戸時代を通じて梅田という地名は存在しません。寧ろ、明治以降に誕生した地名です)の警護に就き、戦局を傍観します。

しかし、先の周防大島口の戦いでの恨みを晴らそうとする長州藩の意向で朝敵とされ、定昭の官位剥奪と追討命令が下ります。

藩論は徹底抗戦派と恭順派に分かれて紛糾しますが、定昭は恭順に踏切り、土佐藩が問罪使を派遣して明治新政府の意向を伝えると蟄居謹慎し、恭順の意を表します。

27日、松山城が無血入城という形で接収され、土佐藩の占領下に置かれるです。


御沙汰書の内容については、山内家の公文書をまとめた『山内家史料』の『豊範公紀』などに記載されていたために周知されていましたが、原本は維新後の混乱や、東京の家屋が空襲で焼けるなどで、その多くが散逸し、所在が不明となっていたようです。

また、他にも孝明天皇の御名で文久3年(1863)正月に出された御沙汰書には、幕府に攘夷の実行を迫るため、前年の文久2年(1862)に徳川将軍へ攘夷勅使を派遣した際、護衛に当たるなどした土佐藩の働きを賞して、天皇の着衣を下賜するので、外国人を攻める時に陣羽織などとして着用するようにと求めたものと、天皇に拝謁して天盃てんぱいを頂くよう伝えた達書たっしがきが見つかっています。

鑑定された松岡さんは「何れも明治維新で土佐藩が果たした役割を示す書状で、貴重な発見。不明となっている土佐藩の功績を伝える文書が未だまだ多く残っているのでは」と話されています。

同研究会は所有者から御沙汰書などを借り受け、27日から2月3日までの期間、高知市立龍馬の生まれたまち記念館(高知市上町二丁目)で公開するとの事。

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※(参考文献)
水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩―敗者の維新史―』(八木書店)
宮間純一「戊辰戦争期における『朝敵』藩の動向―伊予松山藩を事例として」(『中央大学大学院研究年報』39)

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