慶応4年(1868)正月3日に徳川幕府第15代将軍・徳川慶喜の「討薩表」を掲げた旧幕府軍が鳥羽・伏見の戦いで
※1 幕府側についた四国の諸藩の追討を命じた
明治新政府は慶応4年(1868)正月7日、徳川慶喜を朝敵とする追討令(「征討大号令宣布ノ事」『岩倉公実記』)を発し、10日には慶喜の他に幕府閣僚27名を「朝敵」とし、官職の剥奪や京都藩邸の没収などの処分を行使します。
「朝敵」となった者のうち、主っだった者が、
第一等-徳川慶喜(将軍)
第二等-松平容保(陸奥会津藩主、京都守護職)
松平定敬(伊勢桑名藩主、京都所司代) →官位剥奪
第三等-久松松平定昭(老中・伊予松山藩主) →官位剥奪
酒井忠惇(老中首座・姫路藩主) →官位剥奪
板倉勝静(老中次座・備中松山藩主) →官位剥奪
第四等-本荘松平宗武(丹後宮津藩主) →入洛禁止
第五等-戸田氏共(美濃大垣藩主) →入洛禁止
松平頼聰(高松藩主) →官位剥奪
などで、その他にも、
酒井忠氏(若狭小浜藩主) →入洛禁止
稲垣長行(志摩鳥羽藩主) →入洛禁止
大河内松平正質(老中格・上総大多喜藩主) →官位剥奪
内藤政挙(日向延岡藩主) →入洛禁止
が挙げられます。
※2 朝廷文書・御沙汰書
天皇の指示や命令を表す用語として、
律令制度下においては、
この場合、御沙汰書とは、
御沙汰書は、高知県東部に住む歴史愛好家の男性が所有していて、今月初めに同研究会に鑑定を依頼。
前佐川町立青山文庫館長の松岡司さんが鑑定した結果、原本と確認されました。
御沙汰書は
実際、土佐藩は板垣退助が高松城に出陣するなど各地に出兵しますが、何れも戦争にはならず、無血開城(※3)しています。
※3 土佐藩は板垣退助が高松城に出陣するなど各地に出兵しますが、何れも戦争にはならず、無血開城
慶応3年(1867)12月9日の王政復古の大号令の後の小御所会議で公議政体派から倒幕派へ転換した土佐藩が中心となって、丸亀藩や多度津藩の協力の下、高松城下に進駐します。
讃岐高松藩は、宗家である水戸藩が勤王派にもかかわらず、藩主・頼聰の正室が大老・井伊直弼の娘という立場から、鳥羽伏見の戦いでは旧幕府軍にに
戦意を喪失した高松藩側は、1月18日に家老の
伊予松山藩は、徳川家康の母(伝通院)の再婚先であった事から、特に松平の姓(久松松平家)を与えられました。身分としては譜代大名ですが、江戸時代後期になり、御三卿である田安徳川宗武の子を養子にした事から親藩として扱われます。
藩主の定昭は幕府の老中も務め、そのため佐幕派として、第二次長州征伐(四境戦争)には先鋒として出兵。周防大島口の戦いにおいて、住民への略奪・暴行・虐殺を行った事で長州藩の恨みを買っていて、鳥羽・伏見の戦いでは摂津国西成郡曾根崎村の梅田墓地か梅田道周辺(現、大阪市北区曾根崎、梅田一帯→とある書物には、梅田村と書き記したものがありますが、江戸時代を通じて梅田という地名は存在しません。寧ろ、明治以降に誕生した地名です)の警護に就き、戦局を傍観します。
しかし、先の周防大島口の戦いでの恨みを晴らそうとする長州藩の意向で朝敵とされ、定昭の官位剥奪と追討命令が下ります。
藩論は徹底抗戦派と恭順派に分かれて紛糾しますが、定昭は恭順に踏切り、土佐藩が問罪使を派遣して明治新政府の意向を伝えると蟄居謹慎し、恭順の意を表します。
27日、松山城が無血入城という形で接収され、土佐藩の占領下に置かれるです。
御沙汰書の内容については、山内家の公文書をまとめた『山内家史料』の『豊範公紀』などに記載されていたために周知されていましたが、原本は維新後の混乱や、東京の家屋が空襲で焼けるなどで、その多くが散逸し、所在が不明となっていたようです。
また、他にも孝明天皇の御名で文久3年(1863)正月に出された御沙汰書には、幕府に攘夷の実行を迫るため、前年の文久2年(1862)に徳川将軍へ攘夷勅使を派遣した際、護衛に当たるなどした土佐藩の働きを賞して、天皇の着衣を下賜するので、外国人を攻める時に陣羽織などとして着用するようにと求めたものと、天皇に拝謁して
鑑定された松岡さんは「何れも明治維新で土佐藩が果たした役割を示す書状で、貴重な発見。不明となっている土佐藩の功績を伝える文書が未だまだ多く残っているのでは」と話されています。
同研究会は所有者から御沙汰書などを借り受け、27日から2月3日までの期間、高知市立龍馬の生まれたまち記念館(高知市上町二丁目)で公開するとの事。
※(参考文献)
水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩―敗者の維新史―』(八木書店)
宮間純一「戊辰戦争期における『朝敵』藩の動向―伊予松山藩を事例として」(『中央大学大学院研究年報』39)
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