豊臣体制論(4)―「豊臣の子」

現在放送中のNHK大河ドラマ「功名が辻」もいよいよラストスパートですね。

ここ数回は「豊臣の子」「太閤対関白」「関白切腹」といわゆる秀次事件のてん末です。

過去において豊臣秀次役として僕自身の記憶に残っているのは、「黄金の日日」での桜木健一さん、「おんな太閤記」での広岡瞬さん、「独眼竜政宗」での陣内孝則さんですが…今回「功名が辻」で演じておられる成宮寛貴さんは最期をどう演じてくれるのでしょう?

秀次といえば、“殺生関白”のレッテルを貼られているので有名ですね。

これは先帝であった正親町天皇が崩御されて、その公家たちが諒闇中(=喪に服している)時期に、比叡山において鹿狩りをしたという噂から、“殺生”を好む人物として揶揄されたのがそもそもの起こりですが、現実に、鹿狩りをしていたのは太閤秀吉であって、秀次としては悪評を全て植え付けられちゃったのが事実です。

秀次という人物は、阿波の三好康長の養子として三好信吉と称していた時期があります。三好氏といえば堺の町衆=会合衆との文化交流を盛んに行うなど、文化的素養が身に備わっていました。

堺といえば南宗寺に代表されるように臨済禅の大徳寺派と関わりが深かった地域でもあります。

そんな中で、秀次は修練して教養を身につけ、古典籍や和歌、そして同時代の文化人たちのパトロンとして支援します。それが故に“文の君”とも呼ばれているのですよ。

さて、番組のタイトルとして「豊臣の子」という表現がありましたね。

実はこの「豊臣の子」というキーワード、実に深いものがあるんですよ。

― ◇ ◇ ◇ ―

豊臣秀吉は現代のように戸籍上に表記するとすれば、次のどれが該当するでしょうか?
 (1)羽柴秀吉
 (2)豊臣秀吉
 (3)1と2の両方とも

実は、正解は(3)の羽柴秀吉と豊臣秀吉、両方とも正しいが正解です。

秀吉の正式な名称は、

 羽柴 前関白 太政大臣 豊臣朝臣 秀吉

となります。

 羽柴は名字(苗字)
 関白令外官りょうげのかんの官職名
 太政大臣律令制での官職名
 豊臣朝臣は氏・姓

となっています。他の例でいえば、

 徳川 前征夷大将軍 太政大臣 源朝臣 家康

って感じですね。

つまり、秀吉も、秀長秀次、そして秀頼も死ぬまで「羽柴…」であり、「豊臣…」だったことになるのです。

ただし、同じ事が石田三成も、大谷吉継福島正則らにも言えて、彼らも「豊臣…」なんですよ(『歴名土台』参照)

さらには、徳川家康も、前田利家、上杉景勝や毛利輝元伊達政宗…も「豊臣…」だったのです。

つまり、豊臣秀吉の治世下では、皆が「豊臣の子」だったと言えるのです。(言い換えれば、「豊臣…」と付かない大名領主・小名領主たちは所領安堵もなかった―という事ですね。

昔観た大河ドラマ「秀吉」千利休(仲代達矢さん)が切腹した後に、秀吉(竹中直人さん)や北政所(沢口靖子さん)、大政所(市原悦子さん)に追及される石田三成(真田広之さん)…というシーンがありました。

その際、秀吉にオマエは何様のつもりだ!と責められた三成のひと言がまさしく「豊臣の子です!」というセリフだったのです。

このセリフを聴いた時、僕自身、この「秀吉」ってドラマの(僕にとっての)キーワードだな、って感じたことがあります。

それだけに留まらず、「豊臣体制」を研究する僕にとっての最大のキーワードを教えられた気がしたんですよね。

― ◇ ◇ ◇ ―

ところで、今回の秀次事件でも、石田三成が首謀者的立場として描かれていますが、それについては大いに疑問があります。

三成は後に「五奉行」の一員とされますが、筆頭が浅野長政だとして、その地位は4番目。最後の前田玄以が寺社関係や京都奉行であったことを差し引くならば、三成「五奉行」の末席の地位でしかありません。

したがって、三成秀次事件の首謀者だという事は絶対にあり得ないのです。

ましてや、今日放送の「太閤対関白」でも登場しましたが、前野長康・景定(長重)父子に仕えていた“舞兵庫”(前野忠康) や秀次の精鋭“若江八人衆”たちが石田三成方として関ヶ原でも獅子奮迅の活躍を見せています。

三成が首謀者だった場合に、殻らが素直に仕官するとは思えません。(これは現代的感覚で言っているに過ぎませんが…)

もっと肝心が事は、三成自身がこの時、京に居なかったという事実です。

秀次事件の首謀者は長束正家増田長盛の仕業だったんですよね。

一体、いつの時代まで、三成の仕業として語られ続けるのでしょうね?

今回、前野景定(長重)が映像としては初めて登場したのではないでしょうか。この景定(長重)の妻は細川忠興・玉(ガラシャ)夫妻の長女の「お長御寮人」です。

実は、お長も捕縛され処刑されるところだったのですが、出家することで、実家に帰されます。元々、前野家はキリシタンでお長も母・ガラシャと同じようにキリシタンとなります。

関ヶ原合戦の年、ガラシャ三成方の捕縛命令に抗して亡くなる際、お長ガラシャと共に死ぬ事を懇願しましたが、ガラシャは他の姉妹たちと共に脱出させています。

そうして、慶長8年(1603)、24歳の若さでなくなったのです―

このエピソード、誰かドラマ化してくれないかなぁー


― ◇ ◇ ◇ ―

※(関連)豊臣体制論ノート(3)―軍役体系―→
※(関連)豊臣体制論ノート(2)―「在京賄料」について―→
※(関連)豊臣体制論ノート→



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posted by 御堂 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム
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