(トピックス)「師範学校創設を」 教員養成学校の創設訴える明治期のお雇い外国人グリフィスの書状 福井大学で公開!

グリフィスが「かのトレーニングスクールを福井へ…」と師範学校の設立を由利公正に宛てた書状

◇先見性と資質示す史料 福井大学で公開

明治初期、越前福井藩が招聘したお雇い外国人のアメリカ人教師ウィリアム・エリオット・グリフィス(William Elliot Griffis)が、元福井藩士で明治新政府の中枢で多くの功績を残した由利公正こうせい(三岡八郎)に宛てた書状を新たに発見したと発表されました。

書状は今年2月、個人の所蔵で、東京都内の古書店で売りに出されているのを同大学の膽吹覚准教授(国文学)が知り、財団法人「日下部・グリフィス学術・文化交流基金」が購入し、同大学に寄贈した。

書状の宛所あてどころは当時の東京府知事であった由利宛てで、縦15cm、幅が約2m近くの巻紙に日本語の漢字仮名交じりの文章を毛筆体で書かれており、グリフィス本人ではなく、グリフィスの側近(※1)となっていた日本人の代筆のような感じです。

※1 グリフィスの側近
書物を読んだだけで確証はありませんが、側近というべきかどうか解りませんが、グリフィスの世話係&学校係だった前田氏寿が代筆した可能性もあるのでは…


差し出し日は明治4年(1871)8月10日付けで、ちょうどグリフィスが福井藩の藩校「明新館」で教壇に立っていた時期に当たるそうです。

その中で、由利とは由利の長男がグリフィスの教え子だった事もあって、家族ぐるみの親交が深かった間柄であった事が判っています。

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書状には、グリフィスの意見として、日本の教育行政における緊急の課題として、
当今の急務は学生を多く教えることにこれなく、かえって後に教師とすべき人物を多くこしらえる趣意にこれあるべく候
学生を教えるよりも、教師となる人材を育成する必要性がある、と説き、次いで、
チーチャルス。トレーニングスクールと申す学校を御建立に相成り候よう懇願奉る
と外国人教師の増員ではなく、日本人教師養成のための師範学校を全国に創設すべきだ、と説き、また、
かのトレーニングスクールを福井へ御設け下さるべく候よう願い居り候
と、師範学校は国内に5~6校を設置し、創設の際は、その中の1校を福井にも置いて欲しいと呼び掛け、「既に藩校の明新館で日本人教師を養成している」と自らの取り組みを記し、「文部省に提案したいので、(由利に)同省の人物を紹介して欲しい」といった提言をしています。

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師範学校の設立過程については、明治7年(1874)に日本における師範学校設立に大きな影響を与えたとされるドイツ人医学教師テオドール・エドワード・ホフマン(Theodor Eduard,Hoffmann)が文部省に提出した『ホフマン氏学校建議』がありますが、それよりも数年さかのぼっている事になる訳です。

書状を分析した同大学の膽吹覚准教授(国文学)は、「(グリフィスの手紙は)『ホフマン氏学校建議』よりも時期が早い。グリフィスのこの提言は私信に過ぎないが教育者としての資質の高さを示す貴重な史料」と話されています。

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さて、この書状に対する由利の返信は、10月10日付で、同大学が学術交流協定を結ぶラトガース大学のアレキサンダー図書館が所蔵するグリフィスが収集した「グリフィスコレクション」の中に所在を確認されています。

その返信の中で由利はその当時、体調を崩していた時期で、「体調不良のために直ぐに(献策)はできないが、何れ文部卿(=大木喬任)への上申を約束する」と賛意を込めた旨が綴られているという。

その後、翌5年(1872)9月に「学制」が発布され、最初の師範学校(※2)が開校しているが、グリフィスや由利の提言した記録が残っていないため、実際には上申されなかった可能性が高いそうです。

※1 師範学校
学制発布に基づいてできた官立の師範学校
 師範学校→東京師範学校(現・筑波大学)
 東京女子師範学校→東京師範学校女子部(現・お茶の水女子大学)
 大阪師範学校
 宮城師範学校
 愛知師範学校
 広島師範学校
 長崎師範学校
 新潟師範学校


膽吹准教授は「若し上申され、グリフィスの提言が通っていれば、官立の師範学校が福井に設立され、福井に帝國大學ができていたかもしれないかもしれず、北陸の高等教育の中心地になっていたかも…その意味でグリフィスは福井に教育の種をいた人物だと言える」と話しています。

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発見されたグリフィスの書状は、現在同大学文京キャンパスにある総合図書館(福井市文京)でグリフィス来福140年記念事業の一環として、福井大学とラトガース大学の学術交流協定30年を記念して開催されている「お雇い外国人教師 グリフィス展」(~1月10日まで)でで公開中です。

企画展では、グリフィスが由利へ宛てた書状の他に、グリフィスの化学講義テキストや著書など様々な史料約50点が展示されています。

※ ウィリアム・エリオット・グリフィス(William Elliot Griffis)
1843年(天保14)、アメリカ・ペンシルベニア州フィラデルフィア生まれ。1766年(明和3)創立で全米で12番目に古い歴史を持つニュージャージー州の州立大学ラトガース大学(Rutgers,The State University of New Jersey)卒。在学中に同大学に留学した福井藩初の留学生・日下部太郎(在学中に肺結核に倒れる、享年26歳)をラテン語を指導したのが縁で、同藩のお雇い外国人教師として来日する。

明治4年(1871)3月7日に来福以降、翌5年(1872)1月20日までの福井滞在期間、藩校・明新館で理科(化学と物理)や地質学などを教え、福井の教育促進に貢献。日本最初の米国式理科実験室となる、天窓のついた理科室と大窓のある化学実験室を設計した。

その後大學南校(現在の東京大學)などで教鞭を執り同7年(1874)に帰国した。

帰国後は福井や日本での経験を基に『皇国』を出版し、日本の紹介に務めるなどで余生を過ごした。

なかでも、日露戦争時には、日本の国民性アメリカ国民に理解してもらおうと国内を遊説して廻ったという

グリフィスの尽力により、ラトガーズ大学に留学した人材の主だった者を日下部太郎以外に挙げると以下のような人物がいます―

 横井小楠の甥である横井左平太、横井太平
 勝海舟の子・勝小鹿
 三井高善の子息・三井弥之助、三井三郎助(高景)
 岩倉具視の子息・岩倉具定、岩倉具綱、岩倉具経
 大隈重信の婿養子・大隈英麿(離縁ののち、南部英麿)
 松方正義の子息・松方幸次郎
 元土佐藩海援隊士の菅野覚兵衛や白峰駿馬
 元会津藩白虎隊士の山川健次郎

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