(トピックス)日本海海戦で漂着したロシア兵遺体を丁寧に埋葬 鳥取県が調査

冊子『日露戦争時・鳥取県域に漂着したロシア兵』

日露戦争(明治37~38年:1904~05)の勝敗を大きく決定づけた日本海海戦(明治38年=1905=5月27~28日)で、鳥取県内の海岸にロシア兵7人の遺体が流れ着いていた事が、鳥取県立公文書館の調査で判明したそうです。

鳥取県内に流れ着いたロシア兵の遺体に関する実態が明らかになるのは初めてで、同館では調査結果をまとめた冊子『日露戦争時・鳥取県域に漂着したロシア兵』を作成し、同館のホームページで調査結果を公開しています。

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鳥取県内でのロシア兵の遺体に関しては、田後村(現、岩美郡岩美町田後)の漁師が浦富うらどめ海岸の鴨ヶ磯の沖合で漂着した2名の遺体を発見。

引き揚げてはみたが、敵国であるロシア兵の遺体をどうすればよいか村人の間で意見が分かれ、話し合った結果、「敵国といえども亡くなれば同じ仏ではないか」と意見が一致し、遺体を同地に手厚く弔ったと伝えています。

その後、このエピソードを聞き知っていて、村人たちの寛大な心に心打たれた同町出身で初代国連大使の澤田廉三氏(奥様は児童養護施設「エリザベス・サンダースホーム」(神奈川県中郡大磯町)創設者の澤田美喜さんですね)が、ロシア兵の慰霊と村人たちの人類愛を顕彰する目的で昭和37年(1962)に「露軍将校遺体漂着記念碑」が建立され、以後、5年毎にロシア外交官が来県して献花を行う「露国将兵慰霊祭」が催されています。

他にも『境港市史』に僅かな記述があるものの、実態は殆んど明らかになっていなかったそうです。

同館が調査したきっかけは、2月の県議会での森岡俊夫県議の一般質問で「島根県では『(日露戦争の)日本海海戦で島根県沿岸に漂着したロシア人』という史実をまとめている。鳥取県でもまとめてみたらどうか」という提案が発端。

同館専門員の清水太郎さんが担当となって調査を始めますが、県や各市町村に残された当時の公文書にはロシア兵に関する記述が残っていませんでした。

そこで、6月まで約3か月の期間をかけて岩美町など現地での聴き取り調査や国立公文書館が保管する資料など、できる限り当時の状況が記載された資料を照らし合わせた結果、県内には明治38年(1905)6月から7月にかけて、
  • 岩美郡田後村の浦富海岸沖合…2名(→漂流していた遺体を回収)
  • 岩美郡田後村の城原しろわら海岸の岩穴…1名(→漂着)
  • 岩美郡東村大字小羽尾こばねお村(現、岩美郡岩見町小羽尾)の沖合…1名(→漂流していた遺体を回収)
  • 西伯さいは郡境町字台場先(現、境港市)の海岸(美保湾の沖合)…2名(→漂流していた遺体を回収)
  • 西伯郡所子ところご村大字福尾村(現、西伯郡大山だいせん町福尾)の海岸沖合…1名(→漂着)

の計7体が漂着、または漂流して沖合で回収され、埋葬されていた事など、これまで殆んど知られていない事実を掘り起こす事ができたようです。

これら漂着した7体の遺体についての詳細は、国立公文書館に所蔵されている『警保局長決裁書類・明治42年』に記載されていて、実は政府からの漂着したロシア人の調査依頼を受けて、日本海沿岸部の各府県が実施した結果だと云います。

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また、これらの遺体は各地で埋葬された後、明治42年(1909)9月27日に長崎のロシア人墓地に合祀されますが、それにはロシア正教会の宣教師で日本正教会の創建者として東京復活大聖堂(通称、ニコライ堂)(東京都千代田区神田駿河台)に建設に尽力したニコライ・カサートキン主教が日本海海戦から3年後の明治41年(1908)8月に境港の埋葬地を訪れた際、遺体の埋葬地が忘れ去られる事を危惧し、ロシア大使らに合祀する事を積極的に働きかけていた事がきっかけになっていた事も判明しました。

ニコライ主教は日記に境港の埋葬地を訪れた時の様子について、
墓の盛り土はなく、埋葬の際の目撃者が場所を教えてくれなかったら絶対に見つけられないところだった
いまの場所に墓が置かれたままでは、近いうちに墓はうち捨てられて忘れられてしまう。わたしはそれを境の港で目にした

と伝染病患者が葬られている墓地に一緒に葬られいているという埋葬状況に衝撃を受けたと記述。翌年3月の日記では、訪ねて来たロシア大使に、

一九〇五年五月の海戦のあと、日本各地の海岸に打ち寄せられてそこで埋葬されたロシア兵戦没者の遺骨を、一ヵ所に集めて共同墓地に埋葬するという話である。…(中略)…わたしは、なんの差しさわりもない、それどころか、おおいに望ましいことだと答えた。その際、長崎に埋葬されている遺骨をすべて集め、海軍省の指示にしたがって「水兵の英雄」のための記念碑が造られているところに、共同墓地として埋葬することが望ましい

教会としては水兵の遺骨を一ヵ所に集めることになんの支障もないこと、いまの場所に墓が置かれたままでは近いうちに墓はうち捨てられて忘れられてしまうこと、わたしはそれを去年すでに境の港で目にしたことなどを話した

と合祀を実施する方向で、在日ロシア大使館を通じてロシア政府に日本全国に埋葬されたであろうロシア兵の調査を働きかけていたのです。(『宣教師ニコライの全日記』1909年=明治42=3月19日条)

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冊子はB4判で62ページ。440冊を作成し、全国の都道府県立の図書館とロシア大使館などに送ったほか、県内各市町村の図書館などでも閲覧できるようです。

同館の清水さんは「今回、大山や境港でも遺体が埋葬されていた事が判った。ロシア兵の遺体に戒名を付けるなど丁重に葬られた事例も紹介しており、今回の調査がきっかけとなり、日本海沿岸の各自治体でも同様の調査が広がって欲しい」と話されています。

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日本海海戦でのロシア軍将兵の漂着および漂流、そして埋葬の事実は正直知りませんでした。

明治38年5月27、28日の両日、対馬海峡を中心に繰り広げられた日本海海戦において、沈没(被撃沈・自沈合わせて)21隻・拿捕3隻・降伏4隻・抑留7隻・残存3隻となり、ロシア艦隊は壊滅的打撃を受け、捕虜となった数はは6106名にもなりました。

そこで、何か参考になるものはないかと調べてみると、吉村昭氏の著作で『ロシア軍人の墓』(『歴史の影絵』所載)という作品がありました。それには、

  • 長崎県上県かみあがた郡琴村の琴村(現、対馬市上対馬町)の茂木海岸には、装甲巡洋艦アドミラル・ナヒモフ号の乗組員101名が上陸。村人たちは彼らを小学校や民家に収容して手厚くもてなした
  • 山口県から北北西の沖合にある阿武郡見島みしま村(現、萩市見島)の宇津海岸に特務工作艦カムチャッカ号の乗組員56人が上陸、また阿武郡椿東村(現、萩市大字椿東)の越ヶ浜こしがはまにも同艦の乗組員8人が漂流していたが、漁民たちによって救助された(しかし、全員が亡くなったとの事)
  • 山口県阿武郡須佐村(現、萩市須佐)の須佐海岸にはバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)の旗艦クニャージ・スヴォーロフ号の乗組員33人が上陸
  • 島根県の土田海岸の二つ浜のうちの北浜(現、益田市)には仮装巡洋艦ウラル号の乗組員21人が上陸
  • 島根県那賀郡都濃村(現・江津市和木町)の和木海岸真島沖には運送船イルティッシュ号の乗組員235名が上陸。村人たちは空き家になっている家屋に仮収容して食事などを与え、手厚くもてなした
  • 島根県簸川ひかわ郡北浜村(現、出雲市十六島うっぷるい町)には、ロシア人乗組員の死体5体が漂着。軍の許可を得て、村人たち総出で収容した遺体の葬式を挙げ、戒名を付けて共同墓地に埋葬。墓前は現在いまでも村人たちの手で綺麗に清掃され、献花も絶えないと云います。また、毎年慰霊の行事も行われているのだとか―
日本海海戦でのロシア側の戦死者は、4830名にのぼるそうです。

その内訳として、砲弾や火災によって死んだ者もそうですが、溺死によって死んだ者の数もおびただしく多かったようで、そうした遺体が漂着した訳ですよね。日本国内で埋葬されたロシア軍将兵の数は462名にのぼるそうです。

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※(参考)日露戦争時・鳥取県域に漂着したロシア兵(とりネット=鳥取県公式ホームページ「鳥取県立公文書館」より)(PDF形式なので注意!)

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※(参考文献)中村健之介『宣教師ニコライとその時代』(講談社現代新書)
※(参考文献)中村健之介監修『宣教師ニコライの全日記』(教文館)

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