奇跡の人・塙保己一―ヘレン・ケラーが“心の支え”とした日本人

昭和12年(1937)4月、ヘレン・アダムス・ケラー(Helen Adams Keller)女史が訪日されました。

訪日の目的は「日本における盲人たちを激励し、社会の関心を高めて欲しい」との依頼に応えてのものですが、ヘレン・ケラー女史にはこの訪日で最も訪問し、触れ合いたい人物がいたのです。

それこそがはなわ保己一ほきいちという人物でした。

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4月26日、ヘレン・ケラー女史塙保己一を顕彰する社団法人温故学会を訪問します。

講堂に入ると、ヘレン・ケラー女史保己一のブロンズ像や保己一が和学講談所で使っていた机などに触れて心ゆくまで保己一の偉業に接した後、次のような感想を述べられました―

When I was a child, my mother told me that Mr. Hanawa was my role model.
私が子どもの頃、母から塙先生は私がお手本とすべき人物だと語ってくれました。

To visit this place and touch his statue was the most significant event during this trip to Japan.
この地を訪問し、先生の像に触れる事が出来たのは、今回の日本訪問における最も有意義な出来事です。

The worn desk and the statue facing down earned more respects of him.
この使い古した机とうつむき加減なお姿の像を触っていると、心から先生への尊敬の念を覚えます。

I believe that his name would pass down from generation to generation like a stream of water.
先生の名前は必ずや、流れる水の様に、世代から世代へと永遠に受け継がれていく伝わる事でしょう

何度もくじけそうになった事があったけど、塙先生を目標に今日まで頑張ってきました、とヘレン・ケラー女史は仰っているんですね。

彼女は、塙保己一をいわば人生の1つの手本・目標としていたという訳です。

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さて、ヘレン・ケラー女史は三重苦(盲・聾・唖)を克服しながら、大学を卒業して学問を究めるなど、障害者の自立支援や福祉に貢献なさった人物です。

彼女は2歳の時、高熱病にかかり、一命は取り留めるものの目、耳、声の三重苦の身体障害を持ってしまいます。

そんな彼女が何処で如何どうして、塙保己一の存在を知ったのでしょう?

電話器の発明者として知られるアレクサンダー・グラハム・ベル(Alexander Graham Bell)ですが、実は彼の一族は祖父・父・自分に至るまで3代続く聾者教育に尽力した一家でもありました。ベル本人も「私の職業は聾の教師」と言っていた程の様です。

ベルの一家は、スコットランド・エディンバラの出身で、父で大学教授であったアレクサンダー・メルヴィル・ベル(Alexander Melville Bell)は、聾者に発音を教える聾教育者であり、「ビジブル・スピーチ」(Visible Speech:視話法=図に発音する時の唇の形に描いて、図の形通りに発音させる方法)の考案者として著名です。

ベルの母であるイライザ・グレイス・ベル(Eliza Grace Bell)は聴力障害を抱えており、巨大な補聴器を付けていました。

そうした両親との生活の中で、ベル自身も「ビジブル・スピーチ(視話法)」を習熟し、聾者の発音指導に応用します。

やがて、一族挙げてカナダに渡ったベルの一家ですが、当時は猩紅熱しょうこうねつの後遺症が原因で聾者が増え、彼らの自立支援をどうすべきかなど深刻な社会問題の真っ只中にあり、ベルはそうした彼らのために複数の聾唖学校で「ビジブル・スピーチ(視話法)」を実践します。

そうした生徒の中に後に結婚し、妻となるメイベル・グリーン・ハバート(Mabel Green Hubbard)がいました。

実はメイベルも4歳の熱病が原因で失聴するなど聴力障害を抱えていました。

この様に、ベルはその生涯を通じて聾者教育に尽力しているのです。

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1887年、そんなベルの許にヘレン・ケラーの両親・アーサー・ケラーとケイト・ケラーが訪れ、彼の紹介でマサチューセッツ州のウォータータウンにあるパーキンス盲学校校長・アナグノスに手紙を出し、家庭教師の派遣を要請。

その結果、派遣されてきた人物こそ、日本では“サリヴァン先生”の名で知られている、当時20歳のアン・サリヴァン(ジョアンナ・マンズフィールド・サリヴァン・メイシー:(Anne Sullivan、Johanna Mansfield Sullivan Macy)女史で、ヘレン・ケラー女史が6歳の時の事です。

因みに、ヘレン・ケラー女史とアン・サリヴァン女史の半生は「The Miracle Worker」と題して舞台化や映画化がなされ、日本では「奇跡の人」という邦題で上演されていますね。

その事から、日本ではヘレン・ケラー女史の代名詞として“奇跡の人”と表現していますが、「The Miracle Worker」を英訳すると「(何かに対して働きかけて)奇跡を起こす人」となり、実のところ、アン・サリヴァン女史の事を指すんですよね。

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このように、ベルはヘレン・ケラー女史への支援にも尽力するのですが、実は、ベルの許にヘレン・ケラー女史の両親が訪れた際、保己一の事を語っていたのです。

ベルは彼の許で学んだ日本人留学生から保己一について詳しく紹介されていたようですね。

その人物とは、後に「紀元節」の作曲者となる伊沢修二という人物で、明治8年(1875)から同11年(1978)まで、ベルの下で聾唖教育・「ビジブル・スピーチ(視話法)」を学んでいたのです。

伊沢は後に文部省の官吏となり、日本における音楽教育や吃音、盲唖教育に尽力していきます。

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一体、塙保己一とはどんな人物だったのでしょう?

ところで、塙保己一と聞いて何人の人が「知っている!」と答えられるでしょう?

私などの様に大学で日本史を専攻とした者などは、かなりその恩恵を受けているのですけどね(笑)

その代表的なものが『群書類従』や『続群書類従』の編纂ではないでしょうか。

塙保己一は、武蔵国児玉郡保木野村(現、埼玉県本庄市児玉町保木野)に生まれ、幼少の頃から身体は丈夫ではありませんでした。5歳のときにかんの病気(=胃腸病)にかかったのが原因で、徐々に視力が低下し、7歳の時に完全に失明します。

しかし、てのひらを指でなぞって文字を書いてもらったりして、文字を覚えてたり、人から聴いた話を忘れる事はなく、一言一句違わずに語る事ができた程、物覚えが良かったと云います。

15歳の時、江戸に出て盲人としての職業訓練を受けますが、生来の不器用さからそれらを習得できませんでした。

しかし、保己一の学才に気付いた師匠が保己一に様々な学問を学ばせ、学者の道を志します。

保己一は、物覚えが良いという長所を活かし、書物を見る事はできない分、人が音読したものを暗記して学問を進めます。

安永8年(1779)、『群書類従』の出版を決意し、天明6年(1786)刊行を開始、寛政5年(1793)には日本の学問を教える学校として和学講談所を開設。

そうして、文政2年(1819)、保己一74歳の時、『群書類従』は完成します。

こんなエピソードがあります―

ある晩の事、保己一は弟子たちを集めて、和学講談所でいつものように講義をしていました。

その時風が吹いて、蝋燭ろうそくの火が突然消えてしまいました。

それとは気づかず、保己一はそのまま講義を続けていましたが、暗闇の中で弟子たちが慌てて保己一に言いました。

「先生、風で蝋燭の火が消えてしまいました。すぐ火をつけますので、しばらくお待ちください」

これを聞いた保己一は、「目が見えるという事は不便なものだね」と笑顔で言ったとか―

自らの境遇を微塵みじん卑下ひげする事なく、むしろユーモアで受け流すこのエピソードにヘレン・ケラーも特にかれたのだそうです。

保己一のこうしたりんとした生き方は、「障害は不自由でも、決して不幸ではない」というヘレン・ケラー女史の信念と見事に共鳴しているし、この蝋燭のエピソードには、物が見えるという慢心こそが最も危険である、という強いメッセージが込められている様な気がします。

保己一の存在はヘレン・ケラー女史にとり、生きる活力となり、何度も励まされ、勇気づけられたものと思われます。

そういう意味では、塙保己一ヘレン・ケラー女史にとっての「The Miracle Worker」(奇跡の人)と言っても過言じゃないかもしれませんね!

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最後に、塙保己一の功績のお陰で日本の医学に新しい灯火を照らしたエピソードを挙げておきます―

明治18年(1885)、荻野吟子という女性が内務省の医術開業試験に合格し、日本で最初に正式の資格を持った公認の女医が誕生します。

それまでは医者という職業は男性しか成る事ができず、荻野吟子が医学校に入学する際も、医術開業試験受験を受験する際も、先例主義の官公庁は拒否の態度を示します。

この時、国学者・井上頼圀の協力で、平安時代に編纂された、養老律令の公的解釈書である『令義解りょうのぎげ』の中の「医疾令」に女医の前例がある事が証明され、受験を拒否する理由がなくなりました。

この『令義解』が嘉永4年(1851)に塙保己一によってが編纂されていたのです。

こうして、荻野吟子が日本最初の公認女医誕生に一役買った訳なんですよね。

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