(トピックス)未解読文字「契丹文字」の石碑と冊子が発見される

モンゴルで見つかった契丹文字が刻まれた石碑石碑の冒頭に記された契丹文字(左)と解読結果

大谷大学や東京外国語大学などの研究グループは10~12世紀に遊牧民族契丹きったん族によって中国北方~モンゴリア地域にかけて勃興した契丹きったん(遼)王朝が使用していた契丹きったん文字」が刻まれた石碑と冊子がロシアとモンゴルで相次いで見つかった、と発表した。

契丹きったん文字」は大半が未解読で、研究グループは「解読や契丹きったんの歴史をより深く知る手掛かりになる」と期待を高めている。

石碑は昨年(平成22年=2010)8月に大谷大学の松川節教授(東洋史学=モンゴル時代史)らの調査団がモンゴル南部のドルノゴビ県のゴビ砂漠に立つ石碑が契丹きったん文字」で記されているのを確認した。

石碑は高さ約180cmあり、文字は縦書きで7行、150字程刻まれていた。

冒頭の文字を解読したところ、契丹きったん(遼)王朝の年号である「清寧四年(=1058年)八月一日」と刻まれている事が判った。

また、契丹きったん文字」は漢字を参考にしたとされる「大字」と、これとは別の「小字」があり、今回の史料は何れも「大字」で書かれていた。

発表した松川節教授らによると、当時の戦勝の記録か、特定の人物の生涯や業績を記した石碑ではないか、とみている―

一方、冊子は、ロシア科学アカデミーの研究所の図書館に保管されていたが、中国社会科学院の孫伯君研究員が契丹きったん文字」だと指摘した。麻紙に記され、全部で80ページ程。1ページに6行、1行20字程度あった。

契丹きったん文字」は、漢字などを参考にして契丹きったん(遼)王朝の時代に始まったとされているが、見つかっている史料は僅か数十点で、解読は一部に留まっており、松川教授は「契丹きったん文字』が墓誌以外の碑文に記されているのは珍しく、まとまった分量のある史料の発見で更なる研究が進む」と話している。

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さて、契丹きったん族とは4世紀から14世紀にかけて、満州地域から中央アジア地域に存在した半農半牧の民族で鮮卑せんぴ族の後裔ではないかと考えられているようです。

その中でも現在の内モンゴル自治区の東南部、遼河の上流域にいた契丹きったん族の耶律阿保機(太祖)が907年に契丹きったんの君長として可汗の位について勢力を蓄え、916年に唐王朝滅亡後の混乱に乗じ、現在の中国北方に国を興し、国号を大契丹きったん国として天皇帝と称します。(その後、947年に遼と改称するが、983年に再び契丹きったんに戻り、1066年にはまた遼に戻っています)

太祖率いる契丹きったんは勢力を拡大して、北の女真族や西の西夏・回鶻ウィグル・突厥諸部・沙陀諸部を服属させ、東の渤海ぼっかいや西のモンゴル族を滅ぼして、内モンゴル(モンゴル高原東部)を中心に中国の北辺までに及ぶ王朝を創り上げます。

更に、太宗(耶律堯骨)の時、五代十国(※1)の内紛に乗じ、五代の1つで、かつて唐の朝廷(懿宗)から反乱鎮圧の功により国姓(李姓)を賜っていた事から大唐帝国の後継者を自認した後唐を支援した事で燕雲十六州(※2)の割譲を成立させ、中国北方に勢力を固めます。

※1 五代十国
五代十国とは、唐末宋初に黄河流域を中心とする華北を統治した5つの王朝(=五代)と、華中・華南と華北の一部を支配した地方政権(=十国)が興亡した時代を指し、具体的に五代(後梁・後唐・後晋・後漢・後周)、十国(呉・南唐・呉越・閩・南漢・前蜀・荊南・楚・後蜀・北漢)をいう。(但し、地方政権に関しては、岐と燕を入れる場合がある)
※2 燕雲十六州
燕雲十六州とは、10世紀に遼が後晋から割譲されて支配した16の州の事で幽州(現在の北京)・薊州(現在の薊県)・瀛州(現在の河間県)・莫州(現在の任邱県)・涿州(現在の涿県)・檀州(現在の密雲県)・順州(現在の順義県)・嬀州(懐来県)・儒州(延慶県)・新州(涿鹿県)・武州(宣化県)(張家口市)・蔚州(蔚県)・雲州(大同市)(大同県)・応州(応県)(山陰県)・朔州(朔県)・寰州(朔県東北)(朔県東北馬邑付近)の16州が含まれる。すなわち、遊牧民族である契丹(遼)が万里の長城周辺に位置する燕雲の2州を獲得し、農耕を主生活とする定住民をその支配下に抱える事となります。


その後、しばらくの間は中華文化を採り入れようとする派と契丹きったん独自風習を守ろうとする派とに分かれて内部抗争が続きますが、聖宗(耶律文殊奴)の時期に一時的に収まり、中央集権化が進まります。

その間に成立した宋王朝と抗争するようになり、1004年、宋へ遠征した遼は宋との間に澶淵せんえんの盟を結び、以降宋から遼へ莫大な財貨が送られるようになり、経済力を付けた遼は国力を増大させ、西の西夏を服属させるなど、東アジアから中央アジアまで勢力を伸ばした強国となります。

しかし、経済力をつけた事で遼の支配層は奢侈が募って次第に堕落し、軍事力の弱体化を招き、また一時的に収まっていた内部抗争が一層激化します。

その間に東の満州で次第に勢力を強める女真族が力をつけて抬頭。中でも完顔部から出た阿骨打が契丹きったん(遼)に反乱を起こし、1115年即位を表明して建国し、国号を金とします。

遼は大軍で金の鎮圧に向かいますが、逆に大敗を喫します。

これを好機と見た宋は1120年、金と「海上の盟」を結び、遼を挟撃し、遼は1125年に滅ぼされます。

契丹きったん族の多くは金王朝に取り込まれますが、一部の部族は耶律大石に率いられて中央アジアに遠征した結果、西遼(後遼)という国を建てます。(余談ですが、この耶律大石が“プレスター・ジョン伝説”の源のようですね)

しかし、1208年にチンギス・ハァンとの抗争の結果、モンゴル高原から逐われたのを匿い、庇護していたナイマン族の王子クチュルク(缺王、耶律屈出律)によって帝位を簒奪され、そのクチュルクもモンゴル軍によって殺害され、西遼(後遼)は滅びます。

一方で、契丹(遼)の皇族である耶律氏の一族には金の臣下となる者も多く、彼らは譜代の臣として重用されたようです。

金滅亡後はモンゴル帝国の下で漢人として組み入れられます。

元来が遊牧民であり、モンゴル周辺部に居住していた契丹きったん族ですから、殆んどがモンゴル人と普通に会話でき、またその大半が中国語や漢文にも長けていたがためにモンゴル帝国に出仕した人材が輩出しました。

そうした中で耶律氏の子孫である耶律楚材はチンギス・ハァンとオゴタイ・ハァンの2代に仕えて中書令に任ぜられ、モンゴル帝国の政治において重きをなします。

また、その子・耶律鋳と孫の耶律希亮もクビライ・ハァンに仕え、中書左丞相となるなど、耶律氏は元朝の重臣として続いていきます。

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契丹きったん文字」は、遼の太祖・耶律阿保機が神冊5年(920)に制定したとされる文字で漢字を基にした契丹きったん大字」とウイグル文字を基にした契丹きったん小字」という2種類が存在します。

  • 契丹大字=数詞や日付表記などに漢字を参考、あるいは借用して作ったと思われる表意文字ではないかと推察される。神冊5年(920)正月を機に耶律阿保機が創案を開始し、同年9月に完成、公布したとされます。
  • 契丹小字=対称に書かれた漢文から予想される音から想定して、恐らく発音を表す複数の要素を組み合わせた音節文字だと推察される。太祖の弟であった耶律迭剌が、ウイグル文字の表記を参考にして創作したとされる。天賛3年(924)頃に交付されたのではないかと考えられています。

「契丹文字」は保大5年(1125)に遼が滅亡して以降も一部使用されていたようですが、明昌2年(1191)に金によって契丹文字使用禁止令が出されます。

これらは石刻史料の形態で現存するが,資料数は僅少であり,内容的にも墓誌に限られる等の偏重もあり,結果的に未だきったん語および文字の解明には到っていません。

契丹きったん文字」の研究は文字資料の歴史学的アプローチばかりで、他方の言語学的アプローチからの研究に乏しいようです。

でも、総合学問的なアプローチが進めば、新しい発見が生まれるはず!そう期待します!!

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※(参考)遼金西夏史研究会→

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