
幕末・維新期に因幡鳥取藩に付属し、戊辰戦争を官軍として戦い、功績を挙げた丹波国
この行進は、同神社近くの鳥取市歴史博物館(やまびこ館)で現在開催中の特別展「因州兵の戊辰戦争」(〜10月30日まで)で、「山国隊」を取りまとめた隊中取締役の藤野近江守
それらが展示されている事を知らせた上で、「山国隊軍楽保存会」に来訪と鳥取での「軍楽行進」を呼び掛けたところ、「初の鳥取凱旋なら本式に」「史上初めて鳥取を行進する。無様にはできん」という事になり、小中学生を含む47人の軍楽隊が毎年地元の神社で行っている「軍楽行進」を披露する事となったのです。
143年の時を超えて初めて鳥取へ凱旋した羽織姿の「山国隊軍楽保存会」のメンバーは「山国隊」の
ちょうど墓参のため帰郷中だった現当主で鳥取池田家第16代当主である池田百合子さんが「軍楽行進」を見学されたのですが、「オリジナルの曲を聴いたのは池田家では慶徳と私の2人だけだと聞き、大変光栄です」と一行にお礼を述べたそうです。
保存会の川崎輝男会長は「先人が鳥取藩13番隊として戊辰戦争に参加し、慶徳公に京都で演奏を聴いて頂いた。霊前で演奏できて大変感無量です。これからも先人の歴史を残していきたい」と話した。
元鳥取県立図書館長の森本良和さんは、4年前に「山国隊」の地元を訪れて以降、毎年訪ねては「山国隊軍楽保存会」の行進に加わっているそうですが、「明治維新といえば薩長同盟や新選組ばかり目立つが、歴史の転換点には鳥取藩や、『山国隊』の活躍もあった事を知って欲しい」と話す。
森本さんによれば、7年後の平成30年(2018)の明治維新150周年に向け、鳥取所縁の志士たちを顕彰する機運を盛り上げる動きがあると話していた。
さて、「山国隊」は勤王派の農民ら約80人が西園寺公望の要請で慶応4年(1868)に結成されました。
元々、山国郷は太閤検地の頃まで禁裏直轄の荘園「山国庄」だった事もあって、古くから皇室との関係が深く、平安京(城)造営の際は
この山国郷の「山国隊」と同じように古くから皇室と深いつながりがあり、勤王の志が強い地域として、丹波
慶応4年(1868)正月3日に鳥羽・伏見の戦いが勃発し、戊辰戦争が始まりますが、正月5日には各方面に治安維持のための鎮撫隊が派遣され、山陰道鎮撫総督・西園寺公望が丹波領内で「勤王有志之輩は各武具得物相携へ速に官軍に可馳加事」(『丹波山国隊誌』)の激文を飛ばし、兵を募ったのに応じて結成されます。
同年正月11日、山国郷内11か村から山国神社(現、京都市右京区京北鳥居町)に集結し出陣した農兵隊は山陰道鎮撫総督・西園寺公望との合流を目指しますが、その途次の正月18日に鳥取藩の周旋方で京都御留守居加役の
その後の2月13日、東征大総督・有栖川宮熾仁親王の京都出陣に伴い、「山国隊」に東征への従軍指令が下り、「山国隊」の1個小隊(隊士28名、客士2名)が東山道軍の鳥取藩部隊「13番隊」として京を出発します。
「山国隊」はその装備がミニエー銃な事もあって、西洋式の軍事教練を受けていました。しかも、銃の射撃精度が山村の狩猟などで慣らしていたために非常に正確で優れていたそうです。
そうして、新選組との甲州勝沼戦争や下野安塚戦争(激戦だったようで戦死者2名、負傷者5名、行方不明者1名を出す)、彰義隊との上野戦争(交戦の中で戦死者1名 負傷者4名を出す)、奥羽戦線にも従軍し、相馬中村、陸奥亘理及び仙台と転戦し、閏4月25日にようやく江戸に凱旋。以降は錦の御旗の警衛を任されます。
江戸に駐屯する期間、江戸にいた外国人からフランス式訓練と軍楽教育を受け、後の観るような和楽器を用いた西洋音楽風のメロディーを奏でる姿はマーチングの草分けとも言えるでしょう。

結果として、「山国隊」は戦死者4名(行方不明者1名を含む)、病死者3名という多大な犠牲を出す程の活躍を果たします。
しかも、彼ら「山国隊」の出兵費用は自弁(=自己負担)で、鳥取藩にも必要の都度借金をしていました。(鳥取藩だけでも996両、総借財額は7800両に上っていました)
彼らは膨大な借金を抱え、山国郷内の山林を売るなどをして返済して行きます。
翌明治2年(1869)2月18日、「山国隊」は大勢の見物人・出迎えのなか、鼓笛を奏して京から山国郷へ凱旋し、山国神社を参拝。2月25日には死者の慰霊祭を行ない、辻村(現、京都市右京区京北辻町)に招魂場(山国護国神社)を設けます。
最終的には、鳥取を訪れる事なくそのまま解隊。しかし、上記に挙げた様に御所の西側に在った鳥取藩京屋敷(現、京都市上京区油小路通中立売下ル甲斐町)に詰めていた藩主・池田慶徳には「軍楽演奏」を披露したと云います。
私たちが現在、映画やテレビドラマで官軍行進のテーマソングとして聞いている「山国隊」の行進(京都人としてはその昔、王将のCMで流れていたのが懐かしいところ…笑)ですが、
「山国隊」の地元で催される山国護国神社の例祭(招魂祭、4月22日)と山国神社の例祭・還幸祭(毎年10月の第2日曜日) では「山国隊」の子孫たちで創る「山国隊軍楽保存会」による「山国隊軍楽行進」の奉納が観られますが、片や時代祭での先頭を行進する「維新勤王隊列」は実は山国の人たちではないのです。
というのも、参加費用が馬鹿にならないのですね。
時代祭は明治28年(1895)に平安京(城)に都が遷され、桓武天皇が大極殿で初めて正月の拝賀を受けた延暦15年(796)から1100年目に当たり、これを記念して催された「平安遷都千百年紀念祭」の余興として実施された時代行列が平安神宮の祭礼となって現在まで続いている行事です。
「山国隊」もこの時代行列に参加していますが、決して依頼や招待されたのではなく、これもまた自腹を切っての参加なのでした。
とてもじゃないけど、衣裳の新調や旅費宿泊費の工面などに平安講社からの補助金だけではとても賄い切れず、困窮しながらも参加を続ける中、明治35年(1902)以降は5年ごとの参加に縮小し、とうとう大正8年(1919)を最後に参加を止めたという経緯があるのです。
翌9年(1920)以降は同年に京都市に編入された壬生朱雀地区(現、京都市中京区朱雀学区)の人々に山国出身者が多いらしく、代役を務める事で継承されています。
ところが、最近では担当する平安講社第八社(京都市中京区朱雀学区)も人材が集まらず、殆んど学生ボランティアが代役を務めている始末…
正直なところ、山国護国神社の例祭(招魂祭)と山国神社の例祭・還幸祭で演じられる「山国隊軍楽保存会」による「軍楽行進」をこそ観るべきでしょうね。
ましてや、鳥取での「山国隊軍楽保存会」による「軍楽行進」をもっと定着させてくれたら、鳥取まで観に行く事間違いないです!
ところで、「山国隊」を取りまとめた隊中取締役で正五位近江守の藤野齋という人物ですが、元は丹波桑田郡山国郷の名主・藤野五右衛門の長男で、元々は漢方医であったり、山国神社の神職を務めていました。
この藤野齋の私生児として生まれたのが日本で最初の職業的映画監督であり、“日本映画の父”マキノ(牧野)省三なんですよね。
マキノ(牧野)省三は藤野齋と北野
因みに、このマキノ(牧野)省三の四女にあたるマキノ智子(加藤恵美子)が4代目澤村國太郎と結婚して生まれてのが長門裕之氏と津川雅彦さんの兄弟です。津川さんはが映画での監督・プロデュースの際は「マキノ雅彦」を名義として名乗っており、藤野齋の曾孫にあたる事になります。
※(参考文献)仲村研『山国隊』(中公文庫)
※(参考文献)岡本幸雄「幕末・明治維新における郷士の政治的運動の展開―旗本領丹波馬賂両苗郷士ついて―」『立命館経済学』第9巻第2号
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幕末の諸隊は各藩に一つ以上はあったと思いますので、300はあったでしょうね。
有名どころは知っていますが、山国隊の知識はありませんでしたので、家にある幕末人物事典で調べました。
藤野斎と言う人は水口市之進と山国隊を結成したんですね。
詳しく調べられていますね。
それに、みどうさんのブログは見やすくて、読みやすいです。
ブログを始めて、2か月の僕には羨ましい限りです。
ホンモノ…見てみたいですね。
時が流れてもつながりがあるのはステキな事です。
幕末・維新期に各藩に存在した諸隊ですが、意外と「組」で結んでいる組織もあれば、「隊」で結んでいる組織も見られますね。
記事中にも書いたのですが、山国隊の地元、山国郷も弓箭隊の地元、馬路郷も幕藩体制下の軍役課役の際の組織名がそれぞれ「山国組」だったり、「弓箭組」だったりしているんですよ。
こうした表現方法の違いって諸藩の思惑や考え方の違いありそうで、面白そうですよ!
>詳しく調べられていますね。
>それに、みどうさんのブログは見やすくて、読みやすいです。
感想サンクスです。でも、これでも毎回試行錯誤してますよ。
自分が知った事や知りたい事を書き記しておこうと、備忘録っぽく始めましたから…
しかも、PC画面で作成しているし、タグも使いまくってるので、モバイルから見てくれている人にはデザインがメチャクチャかも!(ご勘弁を!笑)
山国隊の軍楽行進ってほとんどテレビ画面から観た時代祭の中継でしか見た事がありません。
あのメロディはすぐに浮かんでくるのにね!(王将のCM様々ですが…笑)
京都人としては京都に関係するモノを見る場合に、内から見る場合と一歩外に出て見る場合とでは感覚的に異なるので新鮮です!
これは日本史の見方にも通じるのでは?と最近思います。やっぱ、世界史の知識も必要かも、とかね。