(トピックス)向日市文化資料館「乙訓・西岡の戦国時代と西岡衆」展

西岡の武士文化の名残を示す品として貴重な江戸期制作の甲冑

向日市文化資料館(京都府向日市寺戸町)で秋のラウンジ展示乙訓おとくに西岡にしのおかの戦国時代と西岡衆」が開催中です。

中世の時代、すなわち鎌倉時代から室町時代にかけて、山城国中西部に位置する乙訓郡(現在の向日市と長岡京市の全域、大山崎町、京都市南区および西京区にしきょうく、伏見区の一部)と、葛野郡(現在の京都市右京区および西京区の一部)を合わせた広範囲にわたる地域を西岡にしのおかと呼んでいました。

「西岡」は桂川の西側に位置し、桂川の水を用水として利用するなど、当時から農業用水路が発達して経済力も豊かな土地柄で、村を支配する土豪たちがそれぞれの支配地域に居城(館)を築いて、相互に連帯して連合して広域的な自治(合議制)を展開していました。

雍州府志ようしゅうふし』には「西郊三十六人衆は、公方譜代の士なり」との記載が見られ、「西岡」には室町将軍家の被官が36人いた事が判り、代表的な土豪として鶏冠井かいで氏、物集女もづめ氏、神足こうたり氏、中小路氏、革嶋氏などの名が挙げられます。

応仁元年(1467)より勃発する応仁・文明の乱では、「西岡衆」は細川勝元が属する東軍として、西国から京都へ入洛する路々の警護にあたっています。

この時代、1つの地区のまとまりは「郷」、幾つかの郷の集まりを「惣」、更に広域のまとまりを「国」あるいは「惣国」と言っていました。

「西岡」の地では自治的な「郷」が発展し、応仁・文明の乱終息直後には機運が高まり、「国」と呼ばれる地域連合体が生まれます。

「国」の構成員=土豪たちは「国衆」と呼ばれ、彼らが独自に「国」としての方針を定めていく訳です。

しかし、室町将軍家の衰退と共に台頭した戦国武将の介入を招き、その抗争の中で「西岡衆」も分裂したために惣国自治は崩壊。

そうした乱世の目まぐるしい時代の変化の中で、「西岡衆」は、あるいは帰属した武将の移封・転封と共に移住する者、あるいは先祖伝来の土地に残らんがために武士を捨てて帰農し、やがて村の有力者としてなる者に分かれていきます。

企画展示では、こうした経緯や、江戸期以降に「西岡衆」がどのような道を辿っていったかを、古文書を中心に、出土品やパネルなど、30点余りの展示物で紹介しています。

そのうち、初公開となる三好長慶書状は、戦国時代の一時期に畿内一帯を支配した武将、三好長慶が永禄元年(1558)、室町幕府第13代将軍・足利義輝との合戦を控え、「西岡衆」らに軍事行動を命じた書状で、この時点で「西岡」は戦国武将の介入を受けていた事が判る訳ですね。

開催期間は10月16日(日)まで。但し、月曜と祝日の翌日などは休館となるので詳細は、同資料館まで。

この記事へのコメント

  • 御堂

    赤堀さん、こんばんは!

    京都でも南山城地域に住む私としては、戦国武将などへの憧れはあまり無くて、西岡衆や私の地元で有名な山城国一揆のような惣国一揆(国人一揆)が守護大名や戦国大名を圧倒してたんやぞ!=どうや、この時代に共和制やねんで!という自負があったりするんですよ。
    2011年10月04日 03:25
  • 赤堀芳男

    相互に連携した西岡という地区が、時の流れによって変わりながらも、西岡衆と言う立場の人たちが生まれ、それもまた変化していくさまが理解できました。有り難うございます。
    2011年10月03日 20:39

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