北方四島の話

1991年(平成3)10月4日付のロシアの『イズベスチヤ』紙掲載の論文中にて明らかにされた事実は国内外を問わず、日露関係研究者たちに大きな衝撃を与えました。

その事実とは、ロシア皇帝ニコライ1世が長崎に向かう使節プチャーチンに対し「北方四島(歯舞・色丹・国後・択捉)を日本の領土と認める形で日露国境を決着して差し支えないことを予め認める」との訓令があったという事実です。

すなわち、「クリル諸島のうち、ロシアに属する最南端はウルップ島であり、同島をロシア領の南方における終点と決めて構わない。これにより、我が方は同島の南端が日本との国境となり、日本側は択捉島の北端が国境となる」という解釈で、つまり、ロシアは日本の北方領土の帰属を完全に承認していた訳で、逆にロシア側はウルップ島以北の帰属を日本側が要求してくる事を懸念していたのです。こうして安政元年12月21日、日露両国間に日露和親条約(下田条約)が調印され、公式に国境が画定しました。

さらに明治8年(1875)5月7日、千島・樺太交換条約(サンクト・ペテルブルク条約)が調印され、ロシアが樺太全島を、日本が全千島を領有する事が認められました。

悲劇が起こったのは、昭和20年(1945)2月4日から11日に行われたヤルタ会談の席上での事、米ソ間で交わされた密約の存在が北方領土の運命を変えてしまったのです。

すなわち、アメリカ大統領ルーズベルトがソヴィエト連邦首相スターリンとの間に交わした対日参戦の報償の中で、南樺太およびクリル列島のロシアへの引き渡しに合意したのです。

ルーズベルト歯舞・色丹・国後・択捉の四島が平和的交渉の基で日本に帰属した領土であるにもかかわらず、明治37年(1904)の日露戦争によって日本が占拠した領土と決めつけました。

※後になってわかった事ですが、ルーズベルトは共産主義、というか第一インターナショナル推進派で、ソヴィエト連邦に有利になる方策を全ての政策において採っていた事実が明らかになっています…とすれば、知っていてうやむやにした―ことも考えられますね。

結局、スターリンの思惑通り(=帝国主義的野望)に事が運び、スターリンの指令の下、昭和20年(1945)8月28日〜9月5日にかけて釧路〜留萌間のライン上以北の北海道地域と北方四島への上陸・占領作戦が敢行されました。ソヴィエト連邦の歴史書には北方四島の占領を9月1日としています。日本がミズリー艦上で降伏文書に調印し、戦闘行為が終結したのが9月2日の事。ソヴィエト側は何としても9月2日以前でなければならなかったのです。この見解は現在もロシア側は否定していません。日露間に平和条約が結ばれるのにはまだ遠くて永い年月がかかりそうですね。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(関連)昭和20年8月、樺太の悲劇―その2 ドラマ「天北原野」と三船殉難事件→
※(関連)昭和20年8月、樺太の悲劇―その1 映画「樺太一九四五年夏 氷雪の門」と真岡郵便電信局事件(1)→
※(関連)1945年8月15日→


   


下記のブログランキングに参加しています。
記載された内容が目に留まった際には、クリックをお願いします!
人気ブログランキング
にほんブログ村 歴史ブログ
posted by 御堂 at 21:33 | Comment(0) | TrackBack(1) | 歴史:コラム
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/22594567
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック

ロシア船が発砲!北方領土と蟹・鮭
Excerpt:   時鮭(厚岸にて)     諸国漫遊編集記 2006 春 北海道U   北海道 厚岸(あっけし)、根室(ねむろ)に時鮭と蟹を取材してきました。 前回、記しました通り、時鮭は..
Weblog: 世の中のうまい話
Tracked: 2006-08-21 15:19