昭和20年8月、ヒロシマ 夏服の少女たちが綴った日記帳

毎年、この時期になると観返すドキュメント作品が2つあります―

1つは、

  • NHK特集「夏服の少女たち〜ヒロシマ・昭和20年8月6日〜」(昭和63年=1988)
もう1つは、
  • ハイビジョン特集「少女たちの日記帳 ヒロシマ 昭和20年4月6日〜8月6日」(平成21年=2009)
というタイトルの作品です。

この2つに共通する舞台があります。それは広島県立広島第一高等女学校(第一県女=現皆実高、以下、第一県女)の生徒たちであった事です。

昭和20年(1945)8月6日午前8時15分、広島は原爆を投下され、当時の人口35万人の4割に当たる14万人が被爆死します。

舞台となる第一県女の1年生223人も建物疎開の作業中に被爆し、全員亡くなっているのです。

ちょうどこの日、8月6日には軍需工場など49事業所に学生や中学上級生の1万6947人、広島市内の建物疎開に中学1年生・2年生の生徒8187人、計2万5134人の学徒が動員され、6833人(そのうち6295人が建物疎開作業の従事していた学徒たち)が死亡しています。(『広島原爆被災誌』、昭和43年=1968=調査より)

1945-08-06_in_hiroshima.jpg

亡くなった1年生223人のうち、1年6組の生徒は42人が犠牲となっています。彼女たちは当日、爆心地から西南に約800mほど離れた、中区小網町一帯の建物疎開が完了し、取り壊された家屋の後片付け作業に学徒隊として初めて動員されていたのです。

― ◇ ◇ ◇ ―

前者の「夏服の少女」は当時、第一県女2年生だった大野允子みつこさんは自身の実体験や遺族たちを訪ね、遺されていた生徒日誌などを基にした作品です。(『夏服の少女たち』(平成元年=1989=)

当時は物資が不足していた時代。県女の生徒たちは母親の古着をほどいて染め直したりするなど、自分たちで夏用の制服(以下、夏服)を作製します。(制服には身元票を縫いつけます。)

やがて夏服が完成し、生徒たちはその喜びの中で♪夏は来ぬ♪を唄わせて下さい、と先生にお願いし、先生の伴奏の下で唄うのです―

の花の 匂う垣根に
 時鳥ほととぎす はやも来鳴きて
 忍音しのびねもらす 夏は来ぬ♪
しかし、彼女たちにとって最後の夏、その日=8月6日が訪れます。

作業をしている中、雲一つない夏空にキラキラと光る美しい物体(=原爆)に彼女たちは見とれていましたが一瞬の閃光が…

― ◇ ◇ ◇ ―

22年前の昭和63年(1988)、8月6日を来月に控えたある夏の日、風呂敷包みを持った老夫婦が広島平和記念資料館(原爆資料館、平和資料館)を訪れました。

その老夫婦は「長い間、娘の形見として守り続けて来たが、私たち夫婦も老い先短い。代わって面倒をみてもらいたい」と言って包みを差し出しました。

大下靖子さん 大下靖子さんの夏服 大下靖子さんのシュミーズ

包みの中身は丁寧に畳んだ、燃えてボロボロになった女学生の夏服とシュミーズ(chemise)でした。

持ち主だった女学生は第一県女1年6組だった大下靖子のぶこさん(当時13歳)。

大下靖子さんは、土橋地区の建物疎開作業に動員され、被爆しました。

同級生と2人で己斐こいに避難し、夕暮まで民家にいた後、己斐国民学校に収容されていたのを発見され、夕刻頃に両親のいる大竹国民学校に運ばれました後、自宅に運ばれました。

その時点ではまだ息があったようで、その日の様子を両親に語り、水を欲しがりましたが、当日深夜12時前に死亡されたそうです。

靖子さんのお姉さんは靖子さんの「昭和20年度の生徒日誌」を大切に保管しているそうです。生徒日誌は「4月6日」の入学式に始まり、戦時下を直向ひたむきに生きた日々を「7月15日」まで鉛筆でびっしりと書き込まれています。その中で、

4月17日 火曜日 天候晴
今日一二校時は裁縫でモンペの型を取りました。私は早くモンペを作りたくてたまりません。

6月13日 水曜日 天気雨
制服は去年までは白色でしたが、今年は白色ではなくて国防色かネズミ色のような布で制服を作るようになりました。それは何故かと申しますと、敵機来襲の時、白いものは目標になりやすいので、今年は国防色かネズミ色にしたのだそうです。それで、今日、制服の型紙を取りました。
とあり、夏用の制服は6月13日から縫製しているようです。靖子さんたち県女1年生223人は自らで縫った夏服を着て、8月6日に爆心地から約800mとなる小網町一帯の建物疎開作業へ初めて参加し、被爆死するのです。

靖子さんのお姉さんも別な学校での「昭和20年度の生徒日誌」も残しておられますが、さすがに8月6日は空欄で、翌7日に

「たった一人の可愛い可愛い妹!」の死を

お父さんとお母さんの泣き声 もしやと飛(び)起きていつて見るともう手の先の方のつめたくなった靖ちゃんをお父さんとお母さんがだきしめておられた
と書き留めておられます。靖子さんの手にはトマトが握り締められていたそうです。

現在、靖子さんの夏服原爆資料館の廃虚を再現したパノラマのそばにあり、入館者の多くが足を止めて見入っています。

靖子さんのお姉さんは「勉強したくても満足にできず容赦なく焼かれた事を、あの夏服から分かって頂ければ、語り継いで頂ければ、有り難いですね」と述べられています。

― ◇ ◇ ◇ ―

後者の「少女たちの日記帳 ヒロシマ 昭和20年4月6日〜8月6日」は上述の大下靖子さん同様に書き記していた第一県女の生徒10人の遺品となってしまった生徒日誌の記載内容を同級生や遺族の証言を基に、学校生活や家族、友人についてなど、戦争に追い詰められながらも精一杯生きた思春期の日々を再現したドキュメンタリー作品です。(大野充子著『ヒロシマ、遺された九冊の日記帳』、ポプラ社刊)

残された生徒日誌は組ごとに先生に提出していたもので、第一県女に入学してからの日々の生活が綴られています。万年筆で書いたもの、筆や鉛筆で書いたもの、また表紙に千代紙を貼って装丁したもの…など記載内容もそれぞれ個性に溢れています。以下、一部抜粋―

熊本悦子さん4月6日
今日はいよいよあこがれていた第一県女に入学し、その式がこの最も激しい戦の真最中に行われた。私達は校長先生を始め諸先生、上級生の方々の御指導のもとに一日も早くりっぱな県女の生徒になることをお誓いした。
1年5組 熊本悦子さん(当時13歳)

4月6日 金曜日 天候晴
今日は楽しい私たちの入学式があって校長先生を始め諸先生方の注意を受けました。私はいろいろな注意を頭にしっかり入れて広島県立広島第一高等女学校の生徒として恥ずかしくない態度を取って、今日からだれにも負けないよう学業に励もうと決心しました。
1年6組 大下靖子さん(当時13歳)

4月10日
今日弟が四国へ疎開をして行った。家に居る時はやかましくて家にいない方がよいと思っていたが、弟がああして行って見るとなんだかさみしい気がして、思い出すと涙が出る。弟をもう少しか愛がってやればよかったとしみじみ感じる。
1年1組 石堂郁江さん(当時13歳)

5月26日
帰ると父からお手紙が来ていたので、かばんもおろさないで読んでいると、母が「かばんもおろさないで読んでいるの。まあおちついて読みなさい」とおっしゃった。私はあまりのうれしさにかばんもおろさないであわてて手紙を読んでいた。
1年6組 大下靖子さん(当時13歳)

森脇瑤子さん5月31日
今日は、何だか歯が痛むので、何も面白くなかった。あまり痛いので、もうやめます。上級生は、この日記帳へ千代紙をはっていらっしゃいますが、私たちもはってよいでしょうか。
1年6組 森脇瑤子さん(当時13歳)

山田緑さん6月17日
今日は一日中家に居た。そして夏服を縫った。夕方それを着て、お使いに行った。初めて着たのでうれしくてたまらない。
1年6組 山田緑さん(当時13歳)

6月26日
実業の時間に先生が一人ずつ呼ばれて、自分の将来の希望をお問いになられた。私は先生になりたいと今では思っております。その気持ちで一生懸命勉強に励もうと思います。
1年6組 大下靖子さん(当時13歳)

7月1日
今日は日曜日ですがお勉強がありました。4校時は組常会があって、…(略)…組長役員を発表されました。今度は奥津さんが(副)組長になられました。今日から二人で力を合わせて組を立派にして行こうと思った。
1年6組 大下靖子さん(当時13歳)

8月5日
午後小西さんと泳ぎに行った。私はちっともよう泳がないのに、みんなよく浮くなと思うとなさけなかった。今日は大へん良い日でした。
1年4組 石崎睦子さん(当時12歳)

8月5日
今日、美智子を私が風呂に入れたので、よろこんでいた。お母さんだと、ゆをとばせばしかられて、私だと、一しょにゆをとばすので、おもちゃを浮かせたりしてよく入った。夕飯は、うどんだった。私が、おしるに味をつけてこしらえたので、お父さんも、お母さんも、おいしいおいしいと言われた。
1年4組 梅北トミ子さん(当時13歳)

8月5日
今日は叔父がきてひさしぶりににぎやかであった。こんな日がつづくといいと思う。明日から家屋疎開の作業だ。がんばろうと思う。以上。
1年6組 森脇瑤子さん(当時13歳)
という感じです。

番組の後半で、一番涙を誘うのが、石堂郁江さんの川を挟んでの、「手旗てばた」の告白シーンかな!実際、手旗信号の実習訓練もあった訳ですが…

当時は道徳観念として「男女、六歳にして席を同じくせず」の時代なので道端で会っても挨拶なんかもってのほか

しかし彼女は、普段通学する川べりの道の反対岸を行き来する少年を意識するようになるんですね。

言葉を交わしたいけど、気恥ずかしい!…でも気持ちに嘘は付けない!石堂さんは内面に沸々と感じていた思いを生徒日誌にぶちまけたようです。実際、彼女の日記は6月24日以降の分が破り捨てられている形跡がみられるんですね。そこにはある種の葛藤があったんでしょう!

ある日、彼女は手旗信号による自己紹介を思い立ち、

「ワ・タ・シ・イ・シ・ド・ウ・イ・ク・エ」
と告白するのですが…

番組のラスト、1枚の肖像画が映し出されます。

石堂さんが被爆死してから50年経った平成7年(1995)のある日、遺族の許に1通の手紙と配達物が届けれました。

ある男性から寄せられたもので、裏面に「五十年前を思い出しながら描いてみた」とあります。

素性を知る術は「あの頃、知り合いだった男性」としか判りませんが、遺族の方が見ると、それはまさに石堂さんの面影が描かれた肖像画だったのです。

作者は石堂さんが思いを寄せていたあの少年だったのでしょうか。石堂さんの面影が鮮明に残っていたかのように描かれていたのですから…

― ◇ ◇ ◇ ―

「あなたは生きとるんね…」
昭和20年(1945)の年末、広島市内の寺院で学校の慰霊祭が営まれました。慰霊祭に出席したある生徒はその折に、1年6組だった娘を失った母親から上記のような非難めいた感情がこもる言葉で責められるように言われたそうです。

あの8月6日、偶々たまたま欠席して難をまぬがれた生徒は、周囲から「生き残り組」と呼ばれるのだとか―

「生き残り組」が原爆を落とした訳でない事は分かっているけど、遺族たちには少数の生存者のいる事が許し難い現実と映るのです。

「生き残り組」は「生き恥をさらすという思い」、「生きながらえた負い目」に苦しめられ、在校生の幾人かはいたたまれなくなり、私学へ転校した者もいたそうです。

「生き残り組」の生徒の方がこう言っています―

「8時15分に何処にいたかが、人の命の分かれ目だった」と―

以来、「生き残り組」にとっては「生き残ったのが申し訳ない気がして、卒業後は同期で集まることはなかった」と原爆で心の傷を背負う事になったのです。

昭和52年(1977)の夏、原爆三十三回忌法要を営んだ際も遺族たちの多くは、「生き残り組」と言葉を交わす事はなかったそうです。

― ◇ ◇ ◇ ―
第一県女が在った旧所在地に建てられた正門の門柱 第一県女が在った旧所在地に建てられた慰霊碑

その遺族と「生き残り組」のわだかまりが解けたのが、平成6年(1994)の五十回忌の事。

実際、遺族の方々も高齢化が進み、「生き残り組」の方々も還暦を過ぎ、年々その姿が少なくなってきているのが現状です。

この年の原爆忌に第一県女の1年生だった梶山(旧姓、中本)雅子さんは小学校からの同級生で仲良しだった石堂郁江さんの両親から、初めて石堂さんの墓参りをする事を許されたのだとか―

被爆から60年以上が経っています。被爆体験と記憶の風化が叫ばれる状況を鑑み、決して風化させてはいけない、と思いつつ今年も8月6日を迎えます。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)禎子ちゃんの想い―クミコ♪INORI〜祈り〜→
※(参照)聞こえなかった原爆―被爆ろう者の叫びを聴いてあげて!→


   


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この記事へのコメント
私のいとこの土肥菊枝は、当時県女の1年生でした。皆さんと一緒に土橋の付近で、勤労奉仕に励んでいたときに、被爆したようですが、母親が必死に捜索しても見つからず、いまだに行方不明なのです。菊枝は、私の父親の妹の長女で、可愛がられて育ったようです。ずっと東京にいた私が、4歳くらいのとき、両親と一緒に広島に行きましたが、その折彼女と一緒に撮った写真がいまでも残っており、おぼろげながら、彼女の印象も脳裏にあるのです。
私の父の実家は海田にあり、戦争の末期に、私を広島に疎開させる話があったのですが、どういうわけか、小学校の担任の先生が猛反対されて、沙汰止みになり、原爆のとき、中学1年だった私は一命をとりとめたのです。広島に疎開していたら、当時海田に住んでいた菊枝とは当然懇ろになり、仲の好いまま一緒に昇天してしまったでしょう。そんなことを、いまになっても、思いを寄せるのです。
Posted by 山下節夫 at 2013年08月13日 23:08
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