(トピックス)「幕勢敗走」「一人も不残被打、淀川如紅」―柳生藩の命運をかけて、情勢を探った一級史料

柳生藩家老の子息・小山田帯刀が鳥羽・伏見の戦いについて記録した書状。「幕勢敗走」や「新撰組」の文字が見える

新政府軍と幕府軍が激突した慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いについて、大和国添上郡柳生郷(現在の奈良市柳生町)を治めていた柳生藩の家老の子息が記録した書状が、奈良市在住の子孫方に所蔵されている事が、柳沢文庫の調査で確認されました。新政府軍の砲撃で淀川が血に染まった、など生々しい戦いの状況が記されているようです。

― ◇ ◇ ◇ ―

柳沢文庫によると、同文庫の学芸員らにより、家老の子孫である小山田晟さん=奈良市在住=が所蔵する文書を調査したところ、書状は縦16・7cm、長さ164・3cmで、小山田帯刀(※1)が父の三郎助ら家老宛てに送った。戦いが始まった正月3日の翌日に玉水宿(現在の京都府綴喜郡井手町)から伝聞した状況を報告した内容と判明。

書状では、薩摩・長州・土佐藩が、奉行所、新撰組、幕府、会津藩の4000人と交戦した結果、

ついニ幕勢敗走」し、「奉行所為兵火焼失」(=幕府軍が敗走し、奉行所が戦いで焼失した)
と記し、大坂から救援に来た幕府軍の船も砲撃で沈み、

「一人も不残被打、淀川如紅」(=一人も残らず敗れ、淀川が血で染まった)
と記録されています。また、

「大坂も大擾乱じょうらん之趣」(=大坂も大混乱の様子)
と戦況の拡大を心配した上で、大坂に行くと締め括っており、急いで書き記した様子が窺われるとの事。

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書状からは、柳生藩は1万石の小藩所帯なので、家老の子息が直接出向いて懸命に情報収集していた事が判り、激動の時代を生き延びようとした藩の必死さが伝わってくるようです。

柳沢文庫の学芸員は「伝聞の内容なので、史実とは違い尾ひれが付いた部分もあると思うが、開戦の翌日に書かれた書状であり、世情の緊迫感が伝わる貴重な史料だ」と話されています。

この書状は、柳沢文庫で6月25日から始まる夏季展示「郡山藩とその時代」で初公開される模様。

展示は9月18日まで。問い合わせは柳沢文庫まで。


※1 小山田帯刀
小山田帯刀の先祖に柳生藩の国家老を務めた小山田主鈴しゅれいという人物がいます。
主鈴は陸奥白河藩の郷士の家に生れ、25歳の時、江戸の柳生藩邸に足軽として仕え、その才腕を認められて、45歳の時、国家老として柳生の里に移り、柳生藩南都屋敷を預かったと云います。
その主鈴が弘化3年(1846)に家督を譲って隠居する際に、隠居宅として藩主・俊章としあきらから賜ったのが、奈良県指定文化財となっている現在の旧柳生藩家老屋敷(柳生資料館)です。

その子孫である帯刀は柳生藩最後の藩主となった柳生俊益(俊郎としろうの代に国家老だった父・三郎助に代わり、情勢を探っていたのでしょう。この時期の柳生藩将軍家剣術指南役という立場から佐幕派がその勢力を優位に立っていましたが、やがて勤王派が勢力を盛り返して藩論を統一するようです。

その後の帯刀は、初期の朝藩体制下の維新政権期には建白書も提出しています。


― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)柳沢文庫→


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posted by 御堂 at 18:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム
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