(トピックス)仁吉を偲び総踊り!―仁吉まつり

「仁吉まつり」で市民らによる吉良小唄総踊り

吉良の仁吉にきちって知ってます?

江戸時代の後半、幕末期に活躍した侠客です。

本名は太田仁吉といい、三河国幡豆はず郡上横須賀村(現・愛知県西尾市吉良町)に没落武士の子として生まれ、18歳からの3年間を清水次郎長の下で過ごし、次郎長と兄弟分のさかずきを交わします。

その後、故郷に帰って吉良一家を興します。

慶応2年(1866)4月8日、侠客の穴太あのう(安濃、現・三重県東員町穴太)の徳次郎(通称、安濃徳、以下、安濃徳と略す)が、次郎長一家が世話をした神戸かんべ(現・三重県鈴鹿市神戸)の長吉ながきちの縄張りであった伊勢鈴鹿郡荒神山こうじんやま(現・三重県鈴鹿市高塚町、元来は高神山だったが流布していくうちに、「荒神山」が広がったよう…)を奪ったため、神戸の長吉と助っ人の仁吉を含めた22名が荒神山の安濃徳の一家とその助っ人(黒駒の勝蔵など)130余名に対して乗り込んだ博徒同士の私闘で「荒神山の喧嘩」と呼ばれます。

結果、神戸の長吉側が勝利を収めたが、助っ人に入っていた仁吉は鉄砲で狙撃された上に、斬られて死亡します。享年28歳でした。

義理人情に厚く、わずかな恩にも報いようとした仁吉の非業に斃れた様は後世、人情物の講談(講談師の3代目神田伯山)や浪曲(浪曲師の2代目広沢虎造)によって大衆文化となって広く知られるになり、やがて演劇や数々の映画、歌謡曲などの題材として よく採り上げられるようになるのです。

但し、史実とは違い、創作の流布が一般的に伝えられてしまい、芝居や映画において仁吉は安濃徳の妹・お菊を妻に娶るが、神戸の長吉への助太刀のために離縁する件りがありますが、実際には仁吉は結婚歴はありません。

仁吉の墓は、一周忌に次郎長が仁吉の親族・太田家の遺族と共に建立したものが生誕地の吉良町にある源徳寺(愛知県西尾市吉良町上横須賀)に残っています。

同じ吉良町出身の尾崎士郎が書いた自叙伝的小説『人生劇場』の中で「吉良常」という登場人物がいますが、尾崎士郎も同郷の偉人である仁吉を慕っていたそうです。

『人生劇場』はさらに映画化されたり、歌謡曲が生まれたり…としていきます。

なかでも、歌謡曲「人生劇場」は佐藤惣之助氏作詞、古賀政男氏作曲でまず楠木繁夫氏の歌として昭和13年(1938)に発表されるのですが、特に早稲田大学出身者や学生に愛唱され、第二の早稲田大学校歌とも云われています。

戦後には村田英雄氏も唄われ、一般的には村田英雄氏の代表作として認知されていますね。

源徳寺の仁吉の墓の傍らには「義理と人情」という文字が刻まれた「人生劇場」歌碑も建っていて、そこには3番の歌詞である、
時世時節は 変ろとままよ
吉良の仁吉は 男じゃないか
おれも生きたや 仁吉のように
義理と人情の この世界
が刻まれているそうです。吉良町の人々の仁吉に対する思いが感じ取れますね。

現在、吉良町では吉良上野介義央きらこうづけのすけよしひさ、尾崎士郎に仁吉を加え、郷土の偉人として“吉良三人衆”として喧伝しており、仁吉の墓がある源徳寺では毎年6月の第1日曜日に仁吉を偲んで、墓前祭を兼ねた「仁吉まつり」がが催され、毎年吉良小唄総踊りパレードなどが繰り広げられ、子どもたちや女性ら約200人が、お揃いの赤い法被はっぴを着て鳴子の拍子で踊り歩いたそうです。

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