(トピックス)徳川宗春の功績を広く知らしめたい―史跡案内の看板が除幕!

歴史の教科書では習わないけど、江戸時代の中頃に「享保の改革」を掲げた徳川吉宗を向こうに張って独自の改革路線を推し進め、今日の中京地区“名古屋”が繁栄する道標を築いた人物がいました―

尾張藩第7代藩主徳川宗春むねはるという人物です。

私などは宗春は大好きな人物の1人でして、、時代劇ドラマで演じられた役者さんとして、『暴れん坊将軍』シリーズで演じられた中尾彬さんや、NHK大河ドラマ「八代将軍吉宗」(平成7年=1995)で演じられた中井貴一さんがすごく印象に残ってます。

ただ、宗春のイメージとして、典型的に善玉の吉宗に対する悪玉というイメージ(勧善懲悪が大好きな日本人では仕方のないところですけどね!)が拭いきれないのが残念ですが…

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さて、宗春は尾張藩第3代藩主・徳川綱誠つななりの第十九男として生まれたため、本来なら部屋済みの身分として一生を終えるはずでした。

ところが、兄で第4代藩主の徳川吉通よしみち、甥で第5第藩主の五郎太、次兄で第6代藩主の継友つぐともが亡くなった事で、尾張徳川家を相続する事態になるのです。

宗春は藩主に就任すると、自身の政治に対する思いを述べた著書『温知政要おんちせいよう』を藩士一同に配布し、幕府の進める重農主義を基幹にした緊縮財政政策に対して、重商主義を根幹にした積極財政政策を打ち立てます。

こうした政策の結果、名古屋の街は活気を取り戻し、その繁栄ぶりに“名古屋の繁華に京(興)がさめた”とまで揶揄されます。

ところが、順調だった経済の伸びも翳りを見せ始め、停滞する一方と化したため、宗春は初志貫徹を諦め、緊縮財政政策に転じます。すると、逆に幕府は積極財政政策に転じたため、名古屋の経済は収渋がつかなくなり、赤字財政に転じてしまう事になったのです。

こうした状況を見ていた幕府の付家老・竹腰正武や国許くにもとの重臣たちは幕閣と謀って、宗春失脚を画策して「主君押込」を実行します。

そうして、宗春から全ての実権を奪い取り、宗春が行った施策を全て無効とし、遂には宗春を隠居謹慎させ、尾張藩より知行地を「収公」(※1)させたのち、改めて支藩である美濃高須藩藩主の松平義淳よしあつ(徳川宗勝むねかつ)に尾張藩を宛行あてがいます。

※1 「収公」
「収公」とは、領主が領有している土地を幕府が納め直す事を意味しますが、ともすれば領地を没収され、武士の身分をも剥奪される「改易」と混同してしまう傾向があるようです。

例えば、元和3年(1617)に起きた最上騒動(出羽山形藩第3代藩主・最上義俊の下で起きた家臣団の内紛に端を発した御家騒動)や寛永17年(1640)に起きた生駒騒動(讃岐高松藩第4代藩主・生駒高俊の下で起きた家臣団同士の派閥争いに端を発した御家騒動)は、前者は出羽山形藩領を「収公」され、近江大森藩主として再出発を赦されているし、後者も讃岐高松藩領を「収公」され、出羽矢島藩主として再出発を果たしています。

それとは異なり、慶長13年(1608)に起きた筒井騒動(伊賀上野藩主・筒井定次の下で起きた家臣団の内紛に端を発した御家騒動)や同15年(1610)に起きた越後福島騒動(越後福島藩第2代藩主・堀忠俊の下で起きた家臣団同士の派閥争いに端を発した御家騒動)などは「改易」処分とされ、御家復興は果たされませんでした。


宗春は名古屋城三の丸内の屋敷に幽閉され、父母への墓参を含め、一切の外出を禁じられてしまいます。

その後、吉宗が死去した事で下屋敷へ移され、父母への墓参なども許されますが、隠居謹慎から25年経った明和元年10月8日に宗春は波乱の生涯を閉じました。享年69歳だったと云います。

宗春の死後、幕府の目を気にし続けた弱腰の尾張藩は宗春の墓石に金網が駆け巡らし、さも重罪人のごとく扱います。

死後75年経って、尾張藩藩主の座に将軍家の子息を襲封させる事になった際、領民の幕府への反感を収める意味で、宗春の名誉回復(=藩主として数えられる)がなされ、金網も金網も撤去されるに至ります。

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設置された徳川宗春の史跡案内の看板と宗春ロマン隊の安田教授

そうした宗春の功績を多くの人に知ってもらおうと、市民有志で創られている「宗春ロマン隊」が活動して、平和公園(名古屋市千種区)にある宗春の墓碑脇に史跡案内の看板が設置され、除幕式が開かれました。

看板は縦43cm、横60cmの大きさで御影石と磁器タイルで作られています。

将軍・徳川吉宗の緊縮政策に反発し、独自の政策を展開した宗春について、「祭りを復興させ、芸能を大いに許すなど人々の生活に活気をもたらし、現在の名古屋の発展の礎を築いた」とする安田文吉・南山大学人文学部日本文化学科教授の紹介文がタイルに焼き付けられています。

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昭和時代の高度経済成長期に故福田赳夫氏によってキャッチフレーズ化された“昭和元禄”のように江戸時代の高度経済成長期だった元禄時代を経て、低成長になった享保年間、元文げんぶん年間に宗春によって唯一反映を見せた名古屋。

こうした経済成長は大衆文化を発展させるのですが、教科書では桃山文化の名残が、上方かみがた(→大坂を指す)を中心とする元禄文化を生み、やがて江戸を中心とした化政(文化・文政)文化に移行していったとしか述べられていないのですが、中間地点の名古屋こそがその文化の中継場所として上方から江戸への橋渡しをしたものと言っても過言ではないと思います。

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