土佐の小京都で、土佐一條公家行列「藤祭り」

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高知県四万十しまんと市で土佐一條公家行列「藤祭り」が催されました。

これは応仁・文明の乱の戦火を逃れ、応仁2年(1468)9月6日に京から領地の土佐国幡多荘はたのしょう、本郷(本庄)中村に下向したさきの関白・一條教房のりふさが中村に入府してくる様子を再現したもので、きらびやかな衣装に身を包んだ女官や従者などに扮した約170人が行列を組み、市内の中心街約2kmをを雅楽の調べに合わせて練り歩くというもの―

行列はまず、公家行列が露払いの武者を先頭に、土佐一條家(※1)を興した一条教房役(今年は一條家の御本家である旧一條公爵家の次期当主・一條実綱さん=東京都=が訪れ、教房役を務めました)が馬に跨り、“いちじょこさん”一條神社(旧、中村御所)を出発。

次いで、土佐一條家第2代・房冬の妻で祭りのヒロインの玉姫(※2)役や侍女らの「女行列」らが続き、玉姫役が朱色の華やかな十二ひとえ姿で一條家の家紋・藤の花で飾られた輿こしに乗り、笑顔を振り撒くと、沿道の市民や観光客らから「綺麗ねぇ」と拍手や歓声が上がっていました。

土佐一條家・一條教房

※1 土佐一条家
  1. 一條教房…従一位、関白
  2. 一條房家…正二位、権大納言、土佐国司
  3. 一條房冬…正二位、近衛大将
  4. 一條房基…従三位、非参議
  5. 一條兼定…従三位左近衛少将、左近衛中将、権中納言
  6. 一條内政ただまさ(大津御所)…従三位、左近衛中将
  7. 一條政親(久礼田くれだ御所)…従四位下、右衛門佐、摂津守

内政が追放された後、その子・政親が家督を継いで「久礼田御所」と称された。その後、戸次川合戦の後に秀吉の推挙により従四位下、右衛門佐、摂津守に任官されるが、関ヶ原の合戦の後、長宗我部氏の改易・没落後は京、あるいは「大和国に去る云々」(『系図纂要』)とあるが詳細は不明。土佐一条氏の消息はここに途絶える事となります。

また、兼定の娘(一条信子)は按察使局あぜちのつぼねと呼ばれ、徳川幕府に出仕していた形跡があります。

崇源院(徳川秀忠正室・お江与の方)に上臈御年寄として江戸城大奥に仕え、その死後も家光、家綱に仕え、旗本の高島主水頭兼政に嫁ぎ、寛文9年(1669)江戸にて生涯を終えます。享年105歳。(「寛政重修諸家譜」)

なお、明治に入り、明治35年(1902)に一條公爵家・実輝の長子・実基が土佐一條家の再興を名目として分家し、男爵を授けられています。

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土佐一條家の開祖が教房なのか?房家なのか?という論争があるようです。

私的な見解としては、私も房家を土佐一條家初代とします。

※2 玉姫
玉姫は伏見宮邦高親王の王女で、大永元年(1521)6月、土佐一條家第2代・房冬に嫁ぎ、第3代・房基を産みました。房冬の死後、仏門に入り、天文16年(1547)に病死しています。

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※(参考)小松泰編著『土佐一条家年表:一条文化を考える』(一条兼定没後400年記念実行委員会)

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