ウクライナ、「死の試合」

サッカーのFIFA2006W杯ドイツ大会もいよいよ決勝トーナメント進出16か国が決まりましたね。

歴史好きな私としては、会場となる都市の地名に趣を感じえません。

ミュンヘン… ライプチヒ… ハノーバー… ベルリン…、そしてニュルンベルク。

ニュルンベルクはナチス・ドイツに関わった戦争犯罪者を裁くべく行われた国際軍事裁判が行われた場所です…

今朝のNHKニュースのスポーツコーナーでウクライナのチームの話題をやっていました。

サッカーの歴史が好きなファンなら、知っているでしょう!「死の試合」のエピソード…

ウクライナは歴史的に因縁深いドイツで初のワールドカップを戦うのだから燃えてくる。

1941年(昭和16)、当時のウクライナはソヴィエト連邦に併合されていて、連邦内ではロシアに次いで重要な共和国の位置にあり、“ウクライナ人の作った米をロシア人が食べる”と揶揄するくらい、「ソ連の穀倉」と言われていました。

そこに、ナチス・ドイツ軍が侵攻(=バルバロッサ作戦)し、首都キエフが陥落。ドイツの占領下に置かれました。

そんな占領化でのエピソードが「死の試合」と呼ばれるものなのです。

ウクライナのクラブチームで「ディナモ・キエフ」というチームがありました。しかし、戦争で召集がかかり、一兵卒として戦っていた彼らは身も心も滅入っていました。

そんな時、「ディナモ・キエフ」の熱烈な信奉者だったパン工場長が寝る場所と練習できる中庭を与えるなどして環境が整ってくると、選手が集まりだし、ライバルチームだった「ロコモティブ」などの選手も加わって「FCスタート」というチームを結成します。

1942年(昭和17)夏、ナチス・ドイツはウクライナの住民を懐柔しようとサッカーの試合をキエフで行います。

選手たちは、厳しい労働と乏しい食糧事情というコンディション、それに比べ、対戦チームは栄養も十分摂取し、休養充分なチームばかり―

しかし、選手たちはそういったチームを次々と破っていき、最後はドイツ空軍の選抜チーム「フラッケルフ」にも勝利します。

占領に苦しむウクライナの人々は熱狂し、ナチス・ドイツの思惑は水泡に帰します。

そして運命の日―1942年(昭和17)8月9日―

リベンジマッチとして再試合が行われます。

ナチス・ドイツ軍の兵士たちの衆人環視の中、また審判もドイツ親衛隊員が務めるなど、劣勢な環境下に置かれながらも、加えて「ハイル・ヒトラー」をするよう強要されようとも、ましてやハーフタイムには「あなた方は勝つことが許されないことを理解せねばならない」と脅迫に近い説得をされようとも、彼らは真摯に死力を尽くして勝利します。

その報復として主力選手4人は収容所に送られ、銃殺されてしまう―というのが「死の試合」の真相です。

このエピソードって、聞いているうちに、映画で観た事があるぞ!と思ったのですが、案の定そうでした。

シルベスター・スタローンやペレが出演した映画「勝利への脱出」ですよね。このときのラストを飾った試合が、「死の試合」だったわけです。(ペレのバイスクルシュート良かったよね。もう一度、観賞してみようかな!)

ところで、ウクライナのFWのアンドレイ・シェフチェンコ選手は、旧ソ連のサッカーの中心だったウクライナの「ディナモ・キエフ」で育ったのだとか―

次の試合からは思いを入れ込んで見てしまうかも!

ウクライナの決勝トーナメント初戦は、スイスと戦います。因縁のドイツと戦うには、3つのステージが待ち構えています!

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