津波に消えた豊後沖ノ浜

去る3月11日午後2時46分、三陸沖及び房総沖での複合地震津波地震となった東北地方太平洋沖地震が発生し、現在も多くの行方不明者の捜索ならびに避難者の皆さんへの支援活動が行われています。

甚大な被災の原因の1つが未曽有の大津波の発生ですね。

現在から415年前にも地震と津波によって一瞬にして地形が変わってしまった地域がありました。

それが豊後国沖ノ浜という場所です。

九州北東部に位置し、別府湾の南西岸にある豊後府内(現大分市)は戦国時代、豊後国(現在の大分県全域)を領有していた大友氏城下町として栄えていました。

しかし、大友宗麟の息子・義統が改易されて以降、豊後国は小大名による分知(分割統治)となります。

そのうちの1人で岡(現、竹田市)城主となった吏僚系大名の中川秀成は、恐らくは(?)太閤蔵入地であった別府湾に面した大分郡内今鶴村(現、大分市津留村)の代官職(※1)を兼務し、秀成の家臣である柴山両賀(重祐)が文禄4年(1595)6月、柴山両賀沖浜船奉行に任命し、赴任していました。


※1 恐らくは(?)太閤蔵入地であった別府湾に面した大分郡内今鶴村の代官職
文禄3年(1594)8月、太閤秀吉は中川秀成を大分郡内今鶴村の代官に任じ、462石2升の年貢の運上うんじょう課税徴収を命じています(文禄3年=1594=8月25日付豊臣秀吉朱印状)。何故、中川秀成が任命されたのでしょう?考えられる事として、

  • 中川秀成の父・清秀が敬虔なキリシタン大名であった

  • 秀成が豊前岡を領有する前、兄である中川秀政が播磨国三木(現、三木市上の丸町)の領主だった事。播磨領内には船上ふなげ(現、明石市新明町)に高山右近、室津(現、たつの市御津町)に小西行長、山崎(現、宍粟市山崎町)に黒田孝高、龍野(現、たつの市龍野町)に木下勝俊、といった具合に数多くのキリシタン大名が領有していて、さながらキリシタン王国の観があった

  • 沖ノ浜における海外交易は主として南蛮貿易であり、キリシタン大名だった大友氏に代わり、キリスト教宣教師たちに覚えのよい中川氏が抜擢されたのでは?
とも考えられますが…

沖ノ浜という場所は、元禄12年(1699)に戸倉貞則が古記録や古老の伝承などを基に書いた『豊府聞書ききがき(現存せず)や同書の写本とされる『豊府紀聞』によれば、

府城之西北二十余町勢家…(中略)…勢家村二十余町北有名瓜生島。或又云沖浜町。其町縦于東西竝于南北三筋成町。所謂南本町中裏町北新町。農工商漁人住焉
の様に豊後府内城の西北20余町(約2・2km)ほど行った勢家村(現、大分市勢家)に沖ノ浜町があり、その町は南本町、中裏町、北新町という3つの町から成り、農・工・商・漁人が住んでいた」とあります。

― ◇ ◇ ◇ ―

その日―文禄5年(1596)閏7月9日午後5時頃、未曾有の大地震が別府湾を直撃します。

桜八幡宮(国東町)の宮司坊権大僧都そうず豪泉ごうせんは、

文禄五年丙申潤七月九日大地震仕、豊後興浜悉ク海ニ成、人畜ニ弐千余死ス、前代未聞条書付申畢、当宮司豪泉誌之
とその日の様子を書き留めています。(同八幡宮宝物『大般若経』第424巻・巻末余白)

また、湾岸から約2km南方で、海抜190mの丘陵にある柞原八幡宮では、拝殿や回廊が倒壊し、豊後府中(府内、現大分市)とその近辺の村々は津波で流されたと記しています。(『由原宮年代略記』)

さらに、原村(現在の大分市原)の庄屋文書で、地震による被災からは72年が経った寛文7年(1667)に高松村との田畑に関する相論が記載された内容の中で、

  • 地震の発生は9日7ツ半時分(午後5時頃)に「ゆり出し」津波が押しよせた。なへ(地震)のゆり出しは高崎方面からで、長ふちからみこ田にかけて地割れがおこった

  • 大地震大浪仕、右之田畠大分損シ無田ニ成申候

  • 大浪大地しんニ田畠大分ゆりこみ、むたニ成
といった記載が見受けられます。

そして、イエズス会宣教師であるルイス・フロイスの報告には、沖ノ浜に住んでいたブラス(Bras)という洗礼名の信徒から地震が起こって2か月経った頃の聞き書きとして

府内に近く三千(歩)離れたところに、沖の浜と言われ多数の船の停泊港である大きな集落、または村落があり、…(中略)…或る夜突然何ら風にあおられぬのに、その地へ波が二度三度と(押し寄せ)、非常なざわめきと轟音をもって岸辺を洗い、町よりも七ブラサ以上の高さで(波が)打ち寄せた。…(中略)…そこで同じ勢いで打ち寄せた津波は、およそ千五百(歩)以上も陸地に浸水し、また引き返す津波はすべてを沖の浜の町とともに呑み込んでしまった。これらの界隈以外にいた人々だけが危険を免れた。それにしてもあの地獄のような深淵は、男も女も子供も雄牛も牝牛も家もその他いっさいのものをすべていっしょに奪い去り、陸地のその場には何もなかったかのようにあらゆるものが海に変わったように思われた。(『1596年(9月18日付、都発信)12月28日付、長崎発信、ルイス・フロイスの年報』補遺)
と生々しく状況を伝達しています。

この時、柴山両賀は朝鮮半島に派兵渡海中なため、、沖ノ浜には留守役として、姉の子で男子のいない両賀の養子となり、娘婿という形で家督を継いだ柴山勘兵衛重成たちが残っていて、彼らがこの地震に遭遇してしまいます。

その時の様子を、

  • 同閏七月…(中略)…九日大地震シテ、沖濱ノ浦ヨリ潮ヲビタゞシクセキ上、大波立テ、両賀ノ屋敷海中卜成ル。重成イソギ家ノ系図ト度々ノ感状ノ入タル挾箱ト持鑓バカリヲ取出シテ、内室トタゞ二人、家ノ屋根ヲ脇差ニテ切ヤブリ、二人共ニ屋根ノ上ニ居テ有リケル所ニ、七尋バカリ有ル舟板、家ノ上ニ流シカヽリタリ。是ヲ幸ノ事ト思ヒテ、二人共ニ乗テ有ケルバ、引潮ニ沖ニ引出サレテ、危キ事度々有リ。暫ク有リテ、波モ風モ、鎮マルト思フ時ニ、小イサキ船ヲ押シテ来ル者有テ、此船ニ乗ラセラレ候ヘタスケ申スベシト云ケレバ、ニ人ナガラウレシクテ、急イデ舟ニ乗リタリ。書物ノ箱ヲモ鎗ヲモ取ノセテ、此者ニタスケラレ行ケルナリ。暫シノ間エ、今津留ト云所ノ島ニ著ケルニ、此所モ大波ニ崩レテ、人家キ見ヘズナリケル。此所ノ氏神ニ天満宮有リ、二人共ニ爰ニ休居テ、ツカレヲハヲシケル。内室ハ産ヲシテ、五日目ノ事ナレバ、取分勞レテ有ナル。同十日ニ沖濱ヨリ吉右衛門、與右衛門、九良兵衛ナド、云家頼ノ者共尋テ来ルナリ。汝等ハ、何トシテ助リタルゾト重成問ヘバ崩レタル家ニトリ付テ、南ノ山ギハ迄、大波ニ打寄セラレタルニヨリ、則、山ニ上リ申テ候ト申ス。残リノ者共ハ如何ニト問ケレバ、大方助リ申テ候ト云。女ハ誰々コソ助リタリ。亦タレ/゛\コソ見ヘ候ハズト申ス。金銀ノ倉、武具、諸具ノ倉モツブレ候ヘドモ、金銀モ武具モ不レ失申ト云。重成先仕合ヨシトテ、其日、沖濱ニ帰リケル(『柴山勘兵衛記』、現存せず、写本のみ)

  • 同月十三日昼頃より大地震ニ而、大波ゆり上、居宅海中となる。重成室出産以後六日目の事なれハ、血も未治らす、出生の小児を抱て、夫婦共に天井に上ル。天井にも水上るゆへ、脇指にて屋萱を切破て二人共に屋の上ニ上ル。系図并感状の箱と鑓を持て上ル。最早屋根も流んとする時に、兼而船を作らんとて調置たる船板の七尋斗なるか流れよりけれハ、是を幸に貳人共ニ乗移り、鑓をも箱をも放さす持去れとも、引塩(汐)に沖に引出されて、幾度も波に打込れんとす。此時男壱人小船を漕来て、是に乗給へ、助け申さんと云。貳人なから嬉しくて、此舟に乗り移り、系図の箱も鑓も取乗て、南を持て漕行。暫く有て或ル渚に漕寄セて、爰に上り給へ、と云置て彼男ハ見へす。此所も大波に崩れて、人家もなし。陸の方へ向て暫く行に、小き社有…(中略)…暫く爰に休ミ居てつかれをはらし、人家に入て休息す。村の者共此事を披露しけれハ、沖浜より吉右衛門・与右衛門・九郎兵衛抔家頼の者共尋来ル。重成悦ひ、汝等ハ何とて助りたるそと問ハ、崩れたる家に取付て南の山際迄大波に打寄セられたりにより、則山に上り申て候、と申す。残りの者共ハいかに、と問は大方助り申て候、男は誰々、女は誰々こそ助り、又誰れ/\ハ見へす候、と云。武具倉并其外の倉々ハと問ヘハ、皆崩れ候得共、武具も金銀も其外の諸道具も失ハ致さす、と云。夫より迎の者共を具して其日沖浜に帰る(『津山氏世譜』)
という様に「昼頃より大地震による激しい揺れに続き、沖ノ浜の浦から潮が大量に押し寄せて大波がゆり上げ、居宅は海中となってしまった。勘兵衛は急いで、家の系図と感状の入った挾箱と持鑓(槍)を持ち出し、勘兵衛の妻は出産後でまだ体調もすぐれなかったが、生まれた小児を抱いて、夫婦ともに天井裏に避難した。しかし、天井にも水が上がってきたので、家の屋根を脇差で切り破り、妻と二人で屋根の上に上がった。すると、七尋(約12m)ほどの舟板が流れ寄ってきたので、これ幸いと思って2人で乗り移ったが、引き潮で沖へ流され、何度も波に打ち込まれそうになった。しばらくすると、男が1人小舟を漕いでやって来て、「この船にお乗り下さい」と言ったので、2人とも喜んで舟に乗った。…(中略)…その後、家臣たちと再会した勘兵衛らは沖ノ浜に帰った」と伝えています。

  • 同閏七月五日ニ、重成内室、始テ平産有リ(『柴山勘兵衛記』)

  • 去ル八日ニ出生の小児も死ス(『津山氏世譜』)
留守を預かっていた勘兵衛には、ちょうど閏7月5日に待望の長男が誕生していました。その長男を出産後でまだ体調もすぐれなかった妻が抱きかかえての脱出劇でしたが、勘兵衛や妻は助かったものの、残念ながら生まれたばかりの長男は間もなく亡くなってしまいます。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、この豊後国沖ノ浜を襲った未曾有の大地震ですが、震源地は別府湾南東部、その規模はマグニチュード7・0程度と推測されます。

別府湾の海底には無数の活断層が東西方向に伸びており、これらの活断層の活動が活発化して地震が発生し、津波が押し寄せた事になります。

また、「ゆり出し」「ゆり込み」とあるように、液状化現象(地下に堆積した柔らかい砂層が、地下水に満たされた状態で激しく揺れ動く事で発生し、砂を含んだ地下水が地面に流れ出す=噴砂=を引き起こす)や海底地滑りによる地変と解釈されているようです。

液状化現象が起こりやすい地形は従来からそこにあった自然形態な地形ではなく、三角洲デルタ地帯(平野部から海や湖への注ぎ口=河口=付近に堆積したもの、細かい土砂が堆積するため、水けが良くない=低湿地、水田など)や扇状地(沖積扇状地、山地帯から平野部や盆地帯に移る箇所に土砂が堆積したもの、急勾配な河川が多いため、砂れきが堆積するため、水捌けが良い=桑畑、果樹園など)、リアス式(沈水海岸、普通の土地が海水や河川によって浸食されてできたもの、鋸の刃先の様に連続してギザギザになっている=三陸海岸、房総半島南部など)、埋立地といった地盤が柔らかな地形で多く発生しています。

という事は、沖ノ浜は人工的に造成された外浜だったと考えて良いでしょう。

― ◇ ◇ ◇ ―

この時期には、まず天正13年(1585)11月29日午後10時過ぎ、中部地方から近畿東部にかけて襲った天正地震が発生しています。この地震で有名なエピソードとして、NHK大河ドラマ「功名が辻」でも描かれましたが近江長浜城主だった山内一豊とその妻、千代との間に生まれた6歳の娘、与禰(よね)の圧死がありますよね。

この天正地震による活断層の活動が、この日―文禄5年(1596)閏7月9日豊後沖ノ浜で起こった津波地震に連動し、そして噴き出しきれなかったエネルギーが、やがて慶長元年(1596)閏7月12日深夜から13日早朝にかけて起こった慶長大地震(伏見地震)を産み出す訳ですね。

いわば、この豊後沖ノ浜で起こった津波地震は慶長大地震への橋渡しを担ってしまったと言えましょう!

実際、同じような現象は今から63年前に福井県を中心に北陸から北近畿を襲った福井地震(昭和23年=1948=6月28日)を起点に、岐阜県中部地震(昭和44年=1969=9月9日)、長野県西部地震(昭和59年=1984=9月14日)と続いた一連の地震活動にも表れています。

しかも、福井県内では63年前の福井地震の余震が現在も続いているのだとか―

余震といっても、体に感じない程度の微小地震ですが、東北地方太平洋沖地震が起きた3月11日に誘発されて、県内で24時間以内に300回ほどの余震が起きたようです。

従って、今回の東北地方太平洋沖地震の発生によって噴出できなかったエネルギーが今後10年、いや15年以内に日本列島に巨大な大災害をもたらす事は間違いないと思われます!

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)実録「岸辺のアルバム」―狛江水害(多摩川水害)→
※(参照)生死を分けた15段―天明3年の浅間山大噴火において→
※(参照)安政の大地震とその被災記録→


   


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posted by 御堂 at 17:29 | Comment(4) | TrackBack(1) | 歴史:コラム
この記事へのコメント
桃源児さん、こんばんは!

>この時の地震で別府湾にあった瓜生島が沈んだという伝説

そうですね。但し、一方で柴山勘兵衛の家臣たちが避難した場所も沖ノ浜だった、という古文書もあったので、切り離して考えてみました。

また、この沖ノ浜は外浜に造成されたものでは?との発想も浮かんだので、もしやすると“奥州十三湊日之本将軍”安東氏差配の下で栄えた津軽十三湊(とさみなと、青森県五所川原市の十三湖=じゅうさんこ=の辺りにあった湊)っぽい造成地かもしれない?という発想もあるのですが…
Posted by 御堂 at 2011年03月17日 21:44
そういえば、この時の地震で別府湾にあった瓜生島が沈んだという伝説もありますね。
Posted by 桃源児 at 2011年03月17日 16:46
茶々さん、こんにちは!

>御堂さんからのTBが、まだ来てませんが…よかったら、もう一度送信していただけますか?

すみませんm(__)m
送信したつもりがミスってました。改めてTB送信しましたので、宜しく…デス!
Posted by 御堂 at 2011年03月17日 14:38
御堂さん、こんばんは〜

コメントありがとうございます。
お言葉にあまえて、TBさせていただきました〜

御堂さんからのTBが、まだ来てませんが…
よかったら、もう一度送信していただけますか?
Posted by 茶々 at 2011年03月16日 23:10
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Excerpt:   文禄五年(1596年)閏7月12日、瓜生島が津波に襲われ、一夜にして姿を消しました。 ・・・・・
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