残念石―大坂城になれなかってん!―

“残念石”って聞いたことありますか―

とくに有名なのが大阪城天守閣の入り口である大手門をくぐって正面に据えられた巨石で、この石は、豊臣氏が滅んだ大坂夏の陣後、徳川幕府の威信をかけた将軍秀忠の号令の下、元和6年(1620)から寛永6年(1629)まで3期にわたる工程で大坂城を再建した際に石垣として使われた御影石のうち、用材として使われなかった、すなわち石垣になれなかったので“残念石”と呼ばれます。

しかし、そうした“残念石”が今も多数残っている場所があります。香川県の小豆島です。波止場には横倒しになった墓標のように、巨石が数十も並んでいます。小豆島は良質の花崗岩が採れる山が港に近く、いかだなどによる海上輸送が容易だったようで、大坂城の巨石を表面露出面積で見ても、ベスト10の半数を小豆島産が占めているのです。

― ◇ ◇ ◇ ―

元和6年(1620)、小豆島で西国の大名が採石を命じられ、小海、小瀬原・千軒(土庄町)、岩谷(内海町)など20か所以上の丁場(採石場)で御影石を切り出し、船で大坂へ運びました。

このうち、小海は豊前小倉の細川忠興・忠利父子、小瀬原・千軒は肥後熊本の加藤忠広が分担。工事を請け負った大名は担当の証として、石に担当を示す△や◎、田の刻印や「八百九内」などの刻文を残しています。

寛永6年(1629)、足かけ10年に及ぶ築城工事が終わりました。島に築城の終わりの知らせは突然、届いたのでしょう。割り出された石はいつでも船に積み込める状態で波打ち際に佇んだまま放置され、それ以外にも島のあちこちに点在しました。

「残石を動かすな」との命令が幕府より下ります。大名の勝手な持ち出しは許さない、石は公儀=幕府のものだというのです。

結果、小海に1236個、千軒付近に920個、その他、島の至るところ、合わせて2815個の石が残されます。(「小豆島石目録」)

小海の庄屋・三宅家が寛文11年(1634)、細川家に対して再三、撤去を願い出た訴状が今に残っています。

残石八百九つ私御年貢地之畑ニ御上ケさせ被成 今ニ御座候ニ付畑壱町余之御年貢私弁 毎年上納仕候ニ付迷惑ニ奉存
(残石809個が私の年貢地の畑にあります。今に至るまで1町余になるその広さ分の年貢も私が納めさせられ、迷惑に存じます)
訴えは、その後代々、少なくとも3回に及びます。しかし、動かしてもいいと許可が出たのは明治15年(1882)、明治政府になってからでした。石は250年以上も放置され、厄介者扱いされてきたのです。

また、石の切り出しには島民が徴用され使役させられました。当時の島の人口は1万9000人ほど。働き手の大半が駆り出されます。

巨石の切り出しは命がけの作業でした。島の東部・岩谷の「八人石」には、悲しい伝承が残ってます。

「八人石」とは長さ6・5mの大小2つの岩で、ある時、9人がかりで石を割りかけ、休んでいると「般若出よ」と声がしたので、般若経を信じる1人が傍を離れた瞬間、石が割れ落ちて横倒しになり、下敷きになって8人が犠牲になったといいます。

明治15年(1882)、せめて防波堤代わりにと一部の石が集められ、防波堤代わりとなります。

― ◇ ◇ ◇ ―

現在、土庄町と香川県は小海の波止場一帯に「大坂城残石記念公園」を整備。5つの棟があり、残石棟では丁場の分布や刻印を紹介。切り出し棟では石を割るげんのう、加工棟では細工用のみを展示。運搬棟では巨石を運ぶ「石曳図屏風」のパネルが並び、体験棟では石に絵や文字を彫り込めます。屋外には刻印のある“残念石”48個が並び、筏(縦9m、横4・5m)のほか、石を載せた修羅やそれを引っ張る轆轤ろくろ(木製のウインチ)が展示されています。


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posted by 御堂 at 17:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム
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