「バルトの楽園」

映画「バルトの楽園 20060616yo2.jpg

第一次世界大戦中にドイツ兵が捕虜として収容されていた徳島県鳴門市にあった板東俘虜収容所を舞台にした映画「バルトの楽園」が来年6月に公開される予定だとか―

第一次世界大戦中、日本軍は日英同盟の記載条項に則り、中国大陸の山東省青島や赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領します。その結果、約1000人のドイツ人たちが捕虜となり、彼らは日本各地に敷設された俘虜収容所に収容されるのですが、その中でも徳島県鳴門市大麻町にあった板東俘虜収容所を舞台にドイツ人捕虜の生活ぶりや地元住民との交流が描がれています。

同所は日本では年末の風物詩となったルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)作曲の「交響曲第九番 合唱付き」(以下、「第九」)が日本で初めて演奏された場所で、映画では収容所の松江豊寿とよひさ所長の生き様を中心に、ドイツ人捕虜と収容所員や地元住民とが交流し合い、一緒に阿波踊りを踊るシーンや、ラストでドイツ人捕虜たちがそんな彼らたちへの感謝の念を込めて「第九」が日本で初めて演奏されるまでが描かれています。

この松江豊寿が非情な戦時下でも、人間の尊厳を頑なに守り続け、「ドイツ兵は愛国者であって犯罪者ではない」とドイツ兵捕虜を人道的に扱い、軍や地域住民との交流を積極的に進めた中で、大正7年(1918)に捕虜による「第九」の演奏が実現したのだとか―

こうした人道的な振る舞いの中で当時、板東俘虜収容所には約1000人のドイツ兵捕虜が収容されていましたが、英語や日本語などの語学講座が開かれたり、俘虜による音楽会もあったのだそうです。(「第九」の初演もそうですが、神戸の“異人館街”のパン屋さんでNHKの朝のテレビ小説「風見鶏」(昭和52年=1977=10月3日〜53年=1978=4月1日)のモデルとなったパン屋さん(フロインドリーブというお店です)もこうしたドイツ人捕虜との交流からでしたね…)

また、松江豊寿は旧会津藩士の子として生まれた人物だそうです。自身は明治5年(1872)生まれだから体験はしていないのでしょうが、たぶん親たちは明治政府軍に負けて捕虜になった体験もあるだろうし、斗南への強制移住や過酷な生活を経験したんではないでしょうか。

そうした親たちの(捕虜という身分での)苦労を聞かされていただろうし、そうした親や同じ会津の人たちの体験を“反面教師”としていたに違いないでしょうね。

― ◇ ◇ ◇ ―

主役である、その収容所の所長だった松江豊寿を演じるのは松平健さんです。松平健さんは「石井のおとうさんありがとう」での石井十次役でも感動しましたが、今回も期待できそう。

松江豊寿の妻・歌子に高島礼子さん(←お庭番から正妻に出世ですね…「暴れん坊将軍」ネタ 笑)。

同じ会津の出身で坂東俘虜収容所の所員・伊東光康に阿部寛さんが演じられます。

また、板東英二さんが板東俘虜収容所に比べ、ドイツ人捕虜たちが厳しい待遇受けることになる福岡県の久留米収容所の所長だった南郷巌を演じられます。

さらに、大杉漣さんが収容所があった地区の坂東小学校の校長・黒田校長を演じられます。

その他に―

収容所の副官で、松江豊寿所長の信頼が厚く、語学が堪能でドイツ兵捕虜たちとの間に入って通訳的役割を果たした高木繁に國村隼さん。

陸軍省俘虜情報局の局長で、松江豊寿所長と悉く意見の対立させる多田少将に泉谷しげるさん。

同じく情報局の島田中佐に勝野洋さん。

ドイツ人捕虜のうち、青島総督のクルト・ハインリッヒには、「ヒトラー最期の12日間」でアドルフ・ヒトラーを好演したブルーノ・ガンツさん。

同じくドイヅ人捕虜で、久留米の収容所で脱走経験があり、坂東に移送された後も再び脱走を試みようとした、パン職人のカルル・バウムにオリバー・ブーツさん。

同じく捕虜で、収容所内の新聞『ディ・バラッケ(Die Baracke)』の編集に携わる、ヘルマン・ラーケにコスティア・ウルマンさんが演じられます。

また、収容所がある村の人々も“収容所のドイツさん”と親しみのある呼び方でかれらに接するのですが、中でも―

脱走して逃げ込んだカルル・バウムに対し、傷の手当てや食糧を与えた女性・すゑに市原悦子さん。

ヘルマン・ラーケに対し、折り鶴を教えたり、やさしく接した娘・マツに中山忍さん。

ドイツ人の父と日本人の母を持つ少女、志を・フランツに大後寿々花さん(→たぶん、志をのエピソードは涙をゼッタイ誘うはず!)。

―など、多彩な配役陣です。

― ◇ ◇ ◇ ―

NHKアーカイブスにおいて板東俘虜収容所のエピソードをドキュメントした作品が放送されます。

放送のテーマは「日本とドイツの戦争秘話」と題して、平成6年(1994)7月26日放送のETV特集「俘虜たちのシンフォニー〜鳴門市・板東俘虜収容所〜」

以下、番組の概要です―

第一次世界大戦中、日本は当時ドイツ領だった中国・青島を攻め落とし多数のドイツ兵が捕虜として日本各地に送られてきました。当時徳島県鳴門市にあった板東俘虜収容所には約1000人が送られてきました。この収容所が他と大きく違うところは、捕虜たちへの人道的配慮により、2年10か月にわたり収容所内はもちろん塀の外でも地元民との温かい交流を続けていたことです。

特に音楽活動は盛んで、大正7年(1918)6月1日に日本で初めてルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン「第九番」の全楽章が収容所内の捕虜たちによって演奏されました。番組では収容所とドイツ兵との交流、そして戦後、ドイツ兵たちが残していった様々な技術や文化が地元の人たちに根付き、今も交流を深めている様子を紹介します
― ◇ ◇ ◇ ―

NHKアーカイブスで放送されたETV特集「俘虜たちのシンフォニー〜鳴門市・板東俘虜収容所〜」を観ました。

NHK徳島放送局の制作って事で、収容所が置かれた坂東の人たちとドイツ人捕虜との交流を中心に描かれていました。

収容所の捕虜たちから、後のラジオ体操に繋がる器械体操を教わったり、パンの製造技術を伝授されたり、県内の酪農技術を飛躍的に向上させるアドバイスを受けたり…

そんな収容所の捕虜たちの中には、坂東の人たちとの交流の中で日本に魅せられて、後々まで日本とドイツの友好や絆を深めた人物が3人程紹介されていました。

1人は、ヘルマン・ボーネル氏。

収容所からの解放後、一旦は青島に戻ったのですが、日本に再来日し、開校直後の大坂外国語大学のドイツ語学科の教授として日本で一生を終えられた方です。

“収容所の知性”と仲間たちからも敬愛されていた位、品行方正な人格の持ち主だったそうです。

収容所の生活の中で催された講座の中に「ボーネル(学)」みたいな授業もあったのだとか―

2人目は、クルト・マイスナー氏。

彼もまた日本に魅せられ、OAG(ドイツ東洋文化研究協会)の会長を務められたそうです。

彼は日本語が達者で、収容所では第一通訳として、収容所や警察、坂東の人たちと捕虜たちの間の架け橋となったそうです。

また、収容所での暮らしがスムーズにいくように、彼が講師となって日本語の文法や会話を習う手助けをしたのだとか―

また彼は、阿波(徳島)の民話や昔話に興味を持ち、坂東の人たちからの聞き書きとして『阿波狸合戦』の翻訳・研究を成したそうです。

最後は、ヨハンネス・バート氏。

彼は収容所解放後、ドイツに帰国したそうですが、晩年、(目を患っていたそうで)もう一度、収容所時代を懐かしく目に焼き付けるために、再来日され、鎌倉に居を置いたそうです。

彼は、鎌倉の事や、寄席・歌舞伎など江戸文化に興味を示し、こうした文化を紹介した本をドイツで出版したのだそうです。

まさに、日本とドイツの交流の一躍を担った方々ですね。

番組の最後に、収容所時代に亡くなったドイツ人捕虜の慰霊碑を清掃される地元・坂東の人たちの姿を映して番組は終わりました。

90年近くの歳月が経っても、絆は失っていない―そう映りました。

― ◇ ◇ ◇ ―

余談ですが…「第九」といえば、僕自身、学生の頃に父が残業などでFMで放送される「第九」のコンサートLIVEを録音しておいてくれ―と頼まれたのですが、昔は今みたいにオートリバーズじゃないので、A面からB面に裏返すタイミングとか、頼まれた以上は完璧にこなしたいという性格も手伝ってか、結局、約70分間の演奏をフルタイム聴いちゃっていて、1曲丸々覚えた!なんてことがすごく懐かしいです(笑)。

 


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posted by 御堂 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(1) | 歴史:ドラマ
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Excerpt: 国のため あだなす仇は くだくとも いつくしむべき 事なわすれそ 明治天皇
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Tracked: 2006-04-22 22:27