結城秀朝(秀康)とその子孫たち

結城秀朝(秀康)像

結城秀朝(秀康)戦国期安土・桃山時代の武将で、徳川家康の次男にあたる人物です。羽柴秀吉の養子となりますが、秀吉に実子鶴松誕生後、結城晴朝の養子となり、秀朝と名乗ります。

―安政3年(1856)4月に結城家の子孫によって催された250回忌の法要でも
「秀朝」としています。

さて、結城秀朝(秀康)は、関ヶ原合戦の後、下総結城10万1000石から越前北ノ庄(のち寛永年間に「福井」と改称)城主67万石に加増・移封となり、名を秀康に改め、松平姓に復したとされています。

―「結城」から「松平」への改姓は家康の命によるものとされていますが、例えば『公卿補任』慶長11年条には「結城源秀康」と記載されていて、、秀朝(秀康)は終生「結城」であった、との見解があります。

―「松平」に改姓していたのならば、「松平源秀康」と記載されていなければおかしいですよね。

―また、「結城」を名乗るならば、結城氏は本来、藤原秀郷流なので、「藤原」とすべき(現実的には、「豊臣秀康」と思うけど…)ところなのに、「源」としているのはおかしい?という疑問符も付きますね。

―実は、結城氏戦国期の永正~天文年間(1504~1554)に藤原姓から源氏姓に転換していたわけです。

―実は結城氏の始祖・朝光は小山政光と源頼朝の乳母だった女性の子どもで、そこから“朝光は頼朝の実子だったと権威付けしていたのです。(この点、実は同じく頼朝の乳母(惟宗氏)だった母から生まれた島津氏のケースと同じ思惑ですね)

―そう考えると、「結城源秀康」という記載も一層確信が持てます。

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秀朝(秀康)の越前移封に従って同行していた養父晴朝は、秀朝(秀康)の死によって結城氏名跡の断絶する事を憂い、慶長12年(1607)結城氏存続を家康に嘆願して許され、秀朝(秀康)の四男・直基結城家名跡を継承する事となり、越前勝山を領する事になります。

神奈川県南足柄市大雄町にある大雄山最乗寺に眠る松平直基の墓石のレプリカ

直基は「制外の家」越前松平5家のうちの第4位、後の松平大和守家=結城松平家の始祖になります。

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秀朝(秀康)の死去以降、越前北ノ庄(福井)の家督は長男の忠直が継ぎますが所業乱行のため、蟄居。その子・光長は越後高田、その子孫は美作津山へ移封となり、越前北ノ庄(福井)には忠直の弟の忠昌が入封します。

以後、幕藩体制下で、この2家は何かと確執―家格争いなど―が絶えませんでした。

松平春嶽(慶永)像

それは、華族制度下の授爵においても同様で、越前福井側が幕末・維新期松平春嶽(慶永)の(政事総裁職公武合体に尽力した)功績から侯爵に授されたのに対し、美作津山側は松平斉民が徳川宗家を継いだ田安亀之助(家達)の後見人という立場であり、慶喜からも「十六代様」と呼ばれていたがために子爵止まりであった。

なお、松平大和守家=結城松平家直克春嶽(慶永)の後の政事総裁職にあったので、伯爵となっている。こちらも「結城」という名跡を巡って、水戸徳川家の家臣となった結城家(幕末期に結城寅寿を出している―)と家格争いを転じたが、一方は大名、他方は陪臣という事で、松平大和守家=結城松平家が上位の家格を勝ち取っています。

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(参考)市村高男「豊臣大名の歴史的位置―結城秀康を中心として―」『地方史研究』33-1
(参考)橋本政宏「結城秀康について」『國學院雑誌』67-4
(参考)大友真一「幕末期における結城氏由緒の復興―川越藩松平大和守家と結城氏旧臣町人の動向―」『日本史研究』489


 

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