アンコール・ワットの落書き

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法隆寺(奈良県斑鳩町)東大門(国宝)の檜製の柱に「みんな大スき」と彫られた落書きがなされていました。完全な文化財保護法違反&器物損壊モノですね。

落書きは縦約60cm、幅約8cm。石のような硬いもので刻まれおり、文字の一部は柱を深くえぐっています。

東大門三棟造と呼ばれる珍しい様式で、五重塔や金堂を主体とする西院伽藍と夢殿を中心とした東院伽藍の間にあり、観光客らの往来が一番多い場所にあります。

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また、名古屋城(愛知県名古屋市)の東南隅櫓表二之門(共に国の重要文化財)にも人名など多数の落書きがあったようです。

東南隅櫓(見張りや武器貯蔵施設などに使われた所)では3階南側の柱2本に「かず」「みゆ」などの人名や相合い傘がコインのようなもので彫って書かれてあり、「2000年」という記述も残されています。

表二之門(正門から天守閣へ向かう際の主要な門。高さ約3・5mの木の扉と柱に鉄板が張られている)では左右の鉄製扉の左右に「メグ」「井下」など人名を中心に50文字以上が書かれてあり、文字の多くが大人の背丈より高い位置にあり、扉によじ登って、錆が付いた部分に書いたようです。

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更に、彦根城(滋賀県彦根市)の太鼓門櫓(国の重要文化財)の柱にも落書きが見つかったらしいです。

太鼓門櫓(天守に通じる最後の関門で、高さ8・2m、幅16・8m)を支える10本の柱(高さ約3・5m、直径約30cm)のうちの1本の柱の高さ約1・5mの位置に幅約7cm、長さ32pにわたって、「横」「井」の2文字と「一」のような横線が釘ようのもので引っ掻いた落書きが見つかりました。

― ◇ ◇ ◇ ―

ところで!

こうした落書き沙汰を耳にした時、ふとアンコールワット(カンボジア)の落書きを思い出さずにはいられません。

アンコールワットは12世紀(1140年頃)に建てられたヒンズー教の寺院で廃墟となっていた建物で、ポル・ポト政権時代には、基地と化していました。

このアンコールワットに、結構落書きが見られ、日本人の手による物が10数例も見つかっています。

当時のカンボジアは南天竺と呼ばれたようで、アンコールワットは、東南アジア一帯から仏教信者のメッカ的な聖地となっていて、仏像を奉納する習慣があったようです。

寛永9年(1632)、森本右近太夫一房という人物がこのアンコールワットを訪れました。彼の父・森本儀太夫一久肥後熊本城主加藤清正の家臣で飯田覚兵衛庄林隼人と並んで加藤家三傑(または三中老)と称された重臣でした。

右近太夫は、父・儀太夫の死後、清正の遺児・忠広の相続問題で家中で内紛が生じ、それに嫌気がさして寛永9年(1632)5月の加藤家改易以前の段階で肥前平戸城主松浦まつらに仕えたようです。

右近太夫は、熱心な仏教徒で、父・儀太夫の菩提を弔うために、噂に聞く祗園精舎ぎおんしょうじゃを訪れようと、寛永8年(1631)の暮れから同9年(1632)の初めにかけて朱印船に乗船して日本を旅立ち、明国経由でアンコールワットに辿り着きます。

松浦静山(第9代肥前平戸城主松浦清)が著した随筆集甲子かっし夜話』によれば、

清正ノ臣森本儀太夫ノ子宇右衛門(右近太夫)ト称ス…(中略)…此人嘗テ明国ニ渡リそれヨリ天竺ニ往キタルニ…(中略)…夫ヨリ檀特山ニ登リ祗園精舎ヲモ覧テコノ伽藍ノサマハ自ラ図記シテ携還セリ
とあります。

祗園精舎ぎおんしょうじゃ(正式名には(祗樹給孤独園精舎ぎじゅぎつこどくおんしょうじゃは、中インドのコーサラ国首都シュラーヴァスティー〔舎衛城:現ウッタル・プラデーシュ州シュラーヴァスティー県〕にあった精舎(伽藍・寺院)で、釈迦が説法を行った場所であり、古代インド、釈迦が在世中に存在したに初期仏教の5つの精舎(伽藍・寺院)である天竺五精舎てんじくごしょうじゃ、または天竺五山=竹林精舎ちくりんしょうじゃ祗園精舎菴羅樹園精舎あんらじゅおんしょうじゃ、大林精舎〔重閣講堂、彌猴池精舎〕、霊鷲精舎りょうじゅしょうじゃ)の1つです。

当時、アンコールワット祗園精舎だと信じられていたらしく、右近太夫の来訪の前後に祗園精舎視察に訪れた長崎の通詞・島野兼了という人物もアンコールワット祗園精舎だと思い込んで、その見取り図を作成ていますが、アンコールワットにぴったり当てはまっています。(現在では、その模写が水戸の彰考館に保存されているとの事)

さて、右近太夫は「寛永9年(1632)正月30日」にアンコールワットに訪れ、仏像4体を献納し、正面中回廊の柱など3か所に墨で落書きをしています。

なかでも十字回廊と呼ばれる場所の落書きには、

寛永九年正月此処生国日本
肥州之住人藤原之朝臣森本右近太夫
一房 御堂カケ数千里之海上渡一念
之儀生々世々娑婆寿世之思者也
為其四躰立奉者也
摂州津国池田之住人森本義太夫
右実名一吉善魂道仙士娑婆
書物也
尾州之國名谷之都後室其
老母之魂明信大姉為後世
書物也
    寛永九年正月廿日


寛永九年正月に初めて此所に来る。生国日本、
肥州の住人、藤原の朝臣森本右近太夫
一房、御堂を心がけ、数千里の海土を渡り、一念
の儀を念じ、生々世々娑婆寿世の思いを清める者なり。
其の為に仏四体を奉るものなり。
摂州津国の住人森本儀太夫
右実名一吉、善魂道仙士、娑婆の為に
是を書くものなり。
尾州の国名谷の都、後、其の室
老母の亡魂、明信大姉の後世の為に是を書くものなり。
    寛永九年正月廿日


(大意)日本の肥州の住人である藤原朝臣森本右近太夫一房は、寛永九年正月にはるばる数千里の海上を渡ってこの御堂(祗園精舎)に参詣し、摂津池田の住人である父森本儀太夫一吉の現世利益と、尾張名古屋出身の亡母明信大姉の後世の為に四体の仏像を奉納したことを書くものである。
    寛永九年正月廿日
とあり、日本から海を渡りこの地へ来た事、仏像を4体奉納し母の後生と父の菩提を伴うため―と書き記しています。

この右近太夫落書きは一時、ポル・ポト政権時代に兵士らが青ペンキで塗り潰してしまったそうです。しかし、最近ペンキが剥がれ、下から再び姿を現したのだとか―

― ◇ ◇ ◇ ―

ちょっと横道にそれた感はありますが、こうした落書きはよくない出来事です。私たち人間は100年あまりの人生ですが、こうした文化遺産は決して現在に生を受ける私たちだけの所有物ではなく、これから何十年、何百年後に生を受ける人たちにとってもかけがえのない知的所有物でもあるのです。

“自分さえ良ければ!”という考え方でこうした落書き行為が行われたのであれば、決して許される訳にはいきません!



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posted by 御堂 at 20:53 | Comment(4) | TrackBack(0) | 歴史:コラム
この記事へのコメント
菜の花さん、こんばんは。

まさか、こんな事をする人がいるなんて…ね(悲!)

もうちょっと節度ある行動をとって欲しいところですが…(寂!)
Posted by 御堂 at 2006年04月21日 20:20
御堂さん♪ おはようございます。

(◎о◎)国宝に落書きする人がいるなんて…。
神様仏様は、落書きを未然に防ぐ神通変化を起こせなかったのかしらん? 非常に残念です。(;ヮ;)

落書きをした人が、一日も早く改心して、自首してくれるように、ただただ祈るばかりです。
Posted by 菜の花 at 2006年04月21日 07:02
あほやんサン、こんばんは。

ちょっとキツい言い方でしたね(笑)。でも、こんな事が二度とないようするためにはある程度の“人身御供”は必要です。

それが子供でろうと、大人であろうと、これは悪い事!って脳裏に焼きつかせないとダメな人(特に子供ら…)が増えましたからネ!
Posted by 御堂 at 2006年04月21日 00:06
こんばんは、あほやんです(・ω・)ノ
おいらも、このニュースを見て「(書いたやつ)あほやな!」と思いました。名古屋城の落書きはアイアイ傘で、名前まで書いてたそうな( ̄□ ̄;)
「何としても見つけ出し、後々の見せしめのためにも断罪が望ましいでしょう!公開処刑なんかが一番いいかも!!」←おいらは、ここまでは思いませんが、“自分さえ良ければ!”みたいな感じで書きよったんやろうなぁとは思いました。
やはり歴史を教える人たち(多分身近なのは学校の先生になるとは思いますが、歴史はどうしても受験勉強的な暗記科目という意識が学校の先生にもあるだろう)が、文化財の重要性を訴え、こういう人たちを指導し反省させるのがベストかとは思います。
が、まあなかなかうまくはいかんでしょう(-_-;)
Posted by あほやん at 2006年04月20日 23:25
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