浅井長政とお市の結婚時期

織田信長の妹・お市(小谷の方)浅井長政結婚時期には主として、

  1. 『川角太閤記』の永禄2年(1559)説

  2. 『東浅井郡志』の永禄4年(1561)説

  3. 高柳光秀氏が推す永禄6年(1563)説←高柳光秀『青史端紅』(『新書戦国戦記』)

  4. 『続応仁後記』や『浅井三代記』の永禄7年(1564)3月説←田中義成『織田時代史』、桑田忠親『淀君』

  5. 奥野高広氏が推す永禄10年(1567)年末から翌11年(1568)頃説←奥野高広「織田信長と浅井長政の握手」『日本歴史』248

  6. 『総見記』の永禄11年(1568)4月下旬説

  7. 小和田哲男氏が推す永禄11年(1568)4月説←小和田哲男『近江浅井氏の研究』
などの諸説が存在します。

それぞれの諸説となっている時期の信長の行動を見ると―

  • 永禄2年(1559)2月 信長、将軍足利義輝に謁見

  • 永禄3年(1560)5月 信長、桶狭間の戦いで今川軍を撃退

  • 永禄5年(1562)正月 信長、松平元康と盟約結ぶ

  • 永禄10年(1567)8月 信長、美濃稲葉山城を陥落させ、斎藤氏を逐う

  • 永禄11年(1568)7月 信長、美濃立政寺に足利義昭を迎える

  • 永禄11年(1568)9月 信長、近江観音寺城を陥落させ、六角氏を逐う
となっています。

このように、お市浅井長政がいつ頃結婚したのかは、とても重要な意味を持っています。

その時期がいつになるかで、結婚の意味合いが変わってくるからです。

これらの諸説と照応してみると、

(1)は未だ美濃攻めに入っていない段階、(2)は美濃攻めに入ろうかという段階なので、この同盟の意味が信長が背後の浅井氏と結んで、目的とする美濃を挟み撃ちにしようとするための“遠交近攻策”(=遠くと結んで近くを攻める)と解釈できます。

それに対し、一番広く支持されているのが、(5)と(6)だそうです。

すなわち、永禄11年(1568)4月頃の説ではないかという訳なんですね。この時期だとすれば、この結婚によって美濃と尾張を制した信長が京への通り道として近江を通過しない訳にはいかないため、北近江の浅井長政と同盟を結んだ―という解釈です。

さらに、上記の諸説を補足できる第一次史料を2点ほど紹介します―

まず1つ目として、浅井長政が永禄10年(1567)9月15日付で信長の側近である美濃の市橋伝左衛門尉(長利)に宛てた書簡(「堀部文書」『古文書纂』)です。

その中で長政尾張守殿江以書状申候、宜預御執(成)候」と、「尾張守」、すなわち信長への「執り成し」=お市との結婚を市橋伝左衛門尉に申し立てています。

次いで2つ目は、年不詳ながら12月17日付で六角氏の家臣である和田惟政が三雲新左衛門尉(成持)及び三雲対馬守(定持)に宛てた書簡(「福田寺文書」)です。

その中で惟政は「仍浅井備前守与信長縁変(辺)入眼候」と浅井長政と信長との間に婚姻関係が成立した事を報告しています。

以上の点から考えた時、この結婚による同盟関係は、どちらが得をしたといえるでしょうか?浅井氏お市を貰っていますが、信長は何も貰っていませんので、当然ながら浅井氏が得をしています。人質が浅井側にいる訳ですからね…

そうなると、この同盟は信長が必要に駆られて、望んだ同盟という事になりませんか。

そこで、もう一度(5)と(6)の永禄11年(1568)4月頃という時期を考えてみましょう。

美濃と尾張を制し巨大化した信長が自分にとって不利益な同盟関係を結ぶでしょうか?

結果論ですが、六角氏だって簡単に蹴散らされた軍事力の差を考えたら、浅井氏など相手にならないでしょう。

そんな段階で自分の肉親であるお市浅井氏に嫁=人質に出す、という事はしないでしょう。

それ故、この同盟関係は信長にとって必要だし、望んで同盟を結んだのだと言い切れるのですが…

最後に、1つ気になる第一次史料を紹介します―

それは、浅井長政が改名という事実です。永禄4年(1561)4月25日付で竹生島の年行事御坊中に宛てた書簡には「備前守 賢政」だったのが、永禄4年(1561)6月20日付で垣見助左衛門尉に宛てた書簡には「浅井備前守 長政」に改名しているのです。これはまさしく信長から「長」の字の偏諱を賜わったと解釈できますね。

そうなると、(2)の永禄4年(1561)説もありだと感じてしまいます。


 

この記事へのコメント

  • 御堂

    しばやんさん、こんばんは!

    仰る通りで、この時代の記録&第一級史料は御家が滅んでいたり、没落していったりすると、或いは散逸し、或いは揉み消されてしまう―というのが現実だと思います。

    最終的に徳川に味方した連中が生き残った訳で、そうした連中の思惑が十分に汲み取られた歴史が創られるんですね。

    後世に生きる私たちがまずやらねばならないのが、その記述に嘘があるやなしや、という検討―

    史学科で歴史の研究をさせて頂いた中で、指導教授から口を酸っぱく言われたのが―歴史とは勝者が語った言葉であるから、敗者となって埋もれてしまった者たちが言わんとしたかったメッセージを探り当てなければならない―という言葉でした。これは今においても、肝に銘じて取り組んでいます。

    もっと大変なのは、主家が没落した事で散逸してしまった記録類が家臣団たちの手許に渡り、もしか今も土蔵の奥で眠っているとか、はたまた家計が苦しくなり、古物商に高値で売り渡したとかで未だ陽の目をみていない可能性もあるんですよね。
    2011年06月07日 04:25
  • しばやん

    結婚時期によって歴史の解釈が随分異なるということがよくわかりましたが、この時代の記録は結構残っていると思っていたのが武将によってはそうでないのですね。
    2011年06月05日 22:58
  • 御堂

    黒駒さん、こんばんは!コメント有難う御座います。

    浅井長政とお市の結婚時期に関して新たな史実が発見されれば、また一風変わった歴史認識が誕生する可能性もあり訳で、歴史を学ぶ者としてはやりがいがあり、楽しいんですよね!(笑)
    2011年02月17日 19:39
  • 黒駒

    戦国期の婚姻は外交そのものですね。確かにこの時代の通例からして、織田と浅井の関係を考えるに織田家から浅井に市が嫁いでいるとなると、婚姻時の両者の関係は対等に近い物であったのかもしれませんね。

    2011年01月25日 19:44

この記事へのトラックバック