豊臣体制論ノート(3)―軍役体系―

豊臣体制が統一政権であり得た事で、軍役基準と知行石高の関連性が窺い知る事ができます。

三鬼清一郎氏は「朝鮮役における軍役体系について」(『史学雑誌』75-2)において朝鮮出兵で朝鮮への渡海を命ぜられた諸大名の軍役の人数が、その大名の知行石高に応じて一定の照応関係を示し、この時期に石高制に基礎をおいた軍役体系が完成したと述べらています。

天正20年(1592)の「陣立書」(『天正記』)は、豊臣体制の軍役体系を包括的にあらわす史料としては、殆んど唯一のもので、初の封建的統一を成し遂げた権力者の立場において、外様の旧族大名をも含んだ全国の大名に対して、出陣すべき軍役人数を個々に指示した史料です。

三鬼氏はこの「陣立書」における諸大名の軍役人数と知行石高との関係を検討され、知行石高を軍役人数で除した数値で、軍役1人当たりの知行高を示されました。

例えば、毛利輝元(安芸広島城主)の場合、知行高112万石のうち、役高は73万4000石なので、朝鮮出兵時の際の軍役人数3万人で除すと24・5となり、それを100石当たりで換算すると、100石につき4人役となっています。

小早川隆景(筑前名島城主)の場合は、知行高30万7300石のうち、役高は20万石なので、これを軍役人数1万人で除すと20・0となり、100石につき5人役となっています。

また、小西行長(肥後宇土城主)は知行高14万6000石に対して7000人の軍役を指定されているので、割合は20・1石に1人となり、100石につき4人役

蜂須賀家政(阿波徳島城主)は、知行高17万6000石に対して7200人の軍役を指定されているので、割合は24・5石に1人で、100石につき4人役

そして、五島純玄(肥前福江城主)は知行高1万4000石に対して700人の軍役が指定されており、割合は20・0石に1人で、100石につき5人役となっています。

この様に、朝鮮出兵における軍役体系は、天正20年の「陣立書」の検討によって、九州大名は知行高100石につき5人の軍役、四国・中国大名は100石につき4人の軍役―と、極めて整然としていた事が分かります。

これを裏付ける史料として、前述した五島純玄に対する天正20年(1592)正月の「九州ハ…(中略)…本役之人数ヲ可出」という指示があった事が記されていて、100石につき5人というのが「本役」だった様ですね。

この当時、敵に隣接する大名は「本役」というのが慣習で、朝鮮出兵については、西国大名の軍勢を主力として動員がかけられたために「九州ハ…(中略)…本役之人数」と指示されていました。

坂西(ばんざい、大坂より西側)以東の諸大名に軍役負担が軽かったのは、天正17年10月10日付の「小田原陣陣立書」にみられるように、

  一、来春関東陣軍役之事
  一、五畿内半役、中国四人役之事
  一、四国より尾張迄六人役之事
  一、北国六人半役之事
  一、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃七人役之事

と、かなりの負担があった事や敵に隣接していない遠国であるという理由がこ考慮された結果だと見られます。

以上のように、豊臣体制朝鮮出兵における軍役体系からみて、統一した軍役基準が存在し、それは秀吉個人の意思決定によって変動をみせていたのです。

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※(関連)豊臣体制論ノート→
※(関連)豊臣体制論ノート(2)―「在京賄料」について―→
※(関連)豊臣体制論ノート(4)―「豊臣の子」―→


 

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