県(あがた)祭

今日からわが街・宇治ではあがたです。

一応知られているのは、「暗闇の奇祭」とかで、6月5日夜11日頃から6日の未明にかけて催される梵天渡御ですかね。でもこれは観光客にとっては見処の1つでしょうが、地元の人間にとっては観ても意味のないイベント事…

中学の時、中間試験の最終日があがた当日と重なってました。

んで、午前中で試験日程が終了し、午後は一斉休校となっちゃうんですが、下校前に体育館で全校集会があって、先生たちから色々な注意事項を承ります。(必要経費は2000円以内とか、友達同士で行った場合は夕方4時まで、親と一緒の場合は午後9時までに帰宅しなさいとか…)

中学の同級生には、親が新町通筋(宇治橋通)商店街に店を構えている友人も多くいたので、そういう処置がなされたものと思われます。

祭りが始まると、一の坂(宇治壱番の辺り)からは歩行者天国になるので、友人たちとの待ち合わせは宇治神社御旅所の付近になり、そこから時計回りに歩くのが暗黙のルール?なので、新町通筋をぶらりとしながらあがた通筋を抜け、本町通筋(県神社御旅線)へ入っていき、1周したところでお開きとなりますが、夜になって、今度は親と一緒に巡ったりします。

あがた江戸期に始まったとされ、神が乗るとされる梵天渡御が見どころとなっています。梵天渡御は午後11時頃、宇治神社御旅所を出発、真っ白な奉書紙を束ねて球状にかたどり太い青竹の先に挟み込んだ直径約2m程の梵天を載せた御輿と雌獅子・雄獅子の各御輿があがた神社までの約2qを練り歩きます。

しかし、今年も昨年と同様、梵天あがた神社側が用意するものと、県祭奉賛会側が用意するものの2基がお目見えする事になってしまいました。

対立するのは、あがた神社梵天御渡の担ぎ手である県祭奉賛会です。県祭奉賛会側は宇治神社御旅所から従来の本町通筋を通らず、都計=都市計画=道路(宇治橋若森線)をを経て宇治橋西詰の間を往復するルートをとります。つまり、あがた神社には立ち寄らないわけですね。これに対し、あがた神社側は境内手前の道路で梵天渡御を行います。

― ◇ ◇ ◇ ―

宇治の街並みは本町通筋とあがた通(大和大路)、新町通筋(宇治橋通)、都計道路の4つの道路で囲まれているのですが、本町通とあがた通は古来より京都から奈良へ抜けるメーン道路の大和大路で、新町通は南北朝期に河内人である楠木正成によって平等院や市街地が丸焼けにされた後に復興した街並みで、江戸期には久世郡宇治郷を支配した上林かんばやし代官屋敷などがあり、本町通に比べて新しく栄えたので、新町通と名がつきました。もう1つの道路は宇治では一番新しい道路で、都市計画整備によって生まれた道路なので、都計道路と呼び、JR宇治駅沿いを通ります。

実際、江戸期に始まったとされるあがたですが、当初は本町通筋とあがた通(大和大路)だけで催されていたそうです。

それに新町通筋(宇治橋通)が新しいルートとして加わったのが大正期の事。

神社側と奉賛会側の対立の構図として、神事ととらえる神社側と祭事ととらえる奉賛会側の思惑があるのでしょう。(奉賛会が行おうとしているルートはJR宇治駅があり、観光集客の玄関口と位置づけられ、宇治市の観光案内所もこちらに移転しちゃってますので…)

由緒正しきは神社側が主張するルートであるのは間違いのない史実!それなのに、道路ができて100年もにも満たない都計道路側をメーンにするなんて、全く観光客を当て込んだ祭事=商業主義にほかなりませんよね。

5〜6月にかけて、宇治地域では3つの神事が催されます。

明治以前、神仏習合宇治神社宇治上神社は1つの社として存在し、離宮社(離宮八幡宮)と呼ばれていて、前者を離宮下社(若宮)、後者を離宮上社(本宮)と呼んでいました。

平安期から室町期にかけて、その、離宮社(離宮八幡宮)摂関家主導で催されていたのが離宮祭というのですが、その名残で、まずは5月1日から5日までの期間、宇治上神社から氏子である宇治市槇島町一帯に神輿渡御が、同じく5月8日から6月8日までの1か月間は宇治神社から氏子である旧宇治郷(現在の宇治市宇治地域、※1)に神輿渡御が、そして、6月5日にここで採り上げるあがたが催される訳です。

※1 旧宇治郷
江戸時代の久世郡宇治郷の領域は現在の宇治市宇治地域、及び神明地区、羽拍子はびょうし町までが範囲で、その範囲内で10の番組(班)に分けられ、各組が当番制で祭事が催されていました。その後、一町一寺社(1つの町に1つのお寺・神社を配置する)といった政策が取られる事になり、神明地区は神明神社が当てられ、、羽拍子はびょうし町には羽拍子はびょうし神社が置かれる事になり、現在の宇治神社のお祭りは10番組(班)から1番組(班)が欠番扱いとなって、9番組(班)で催されています。


私の実家は旧宇治郷=現宇治市宇治地域なので、昔で言えば、宇治神社の氏子に当たります。

実家から通りを挟んで宇治市神明地区になるのですが、こちらは神明神社の氏子さんたちになります。

狂言の演目に「栗駒神明」というのがありますね。これは神明神社を舞台にしたものと云われています。

この神明神社の領域は古代では「栗駒くりこま山、栗駒くりこ山、栗前山」などと称され、天皇や貴族たちが遊猟に訪れたそうです。現在では宅地開発で面影さえなくなりましたが、昔は現在の鴻ノ巣山運動公園(城陽市寺田奥山)まで連なっていて、山道伝いに旧の奈良街道(古北陸道)長池宿の辺り(現、城陽市長池)まで繋がっていたそうです。

あがたあがたというのは、古代の尾張国以西を治めていた頃(大化改新以前)の大和王権の行政単位を指し、あがたを治めていたおさ(長官クラス)を県主あがたぬしと言います。

そのあがたが土地名として残ったのでしょうか、藤原道長平等院の前身である宇治院を別荘(別業)とした以前は、現在のあがた神社の辺りは「あがたの森」と称されていました。

また、『更級日記』の作者である藤原道綱母ふじわらのみちつなのははが初瀬詣(長谷寺参詣)に出かけた安和元年(968)には宇治院とは別に藤原師氏ふじわらのもろうじ道綱母みちつなのははの夫・藤原兼家の叔父)の別業「あがたの院」があったそうです。

道綱母みちつなのははが再度、初瀬詣(長谷寺参詣)に出かけた天禄2年(971)7月には「あがたの院」の所有者であった師氏もろうじは亡くなっており、荒廃してしまった様子が記されています。

その後、藤原道長から宇治別業を譲り受けた頼通宇治別業平等院と成す訳ですが、その際、荒廃していた「あがたの院」の地を平等院の鬼門にあたる事から、あがた神社としたのでは?と考えられます。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて本題に戻って、奉賛会側は兵庫県や大阪府など、宇治の人間にとっては他所者よそものの人たちです。反対に、神社側は土着の宇治茶師を継ぐ老舗茶業者など地元の人たちで構成されています。

しかも、この分裂騒ぎでの光明というべきなのかどうか…神社側は担ぎ手に地元の有志を募集されています。

これって、地元の人間にとって嬉しい事じゃないでしょうか?

今までなら、地元の祭りなのに、ただ観てるだけの立場だったのが、「えっ、私たちも参加できるん?」って感じなんですよね。

やはり、あがたは、宇治びとの、宇治びとによる、宇治びとのための祭りなんだから…

どうして、担ぎ手である奉賛会が宇治以外の他所者よそものである兵庫県や大阪府の連中を取り込もうとするのか?―

これは歴史的な背景があって、その昔、宇治の地には菟道稚郎子うぢのわきいらつこといって応神天皇と宇治の木幡あたり(の国といっていた…)に勢力を持っていた大和(奈良県)の三輪王朝の氏族の娘との間の生まれた皇子がいました。応神天皇の支配地は河内地方で三輪王朝の豪族たちとは対立関係にありましたので、応神天皇は遺言で両勢力を融合した形になる菟道稚郎子うぢのわきいらつこを皇太子に指名しました。菟道稚郎子うぢのわきいらつこは現在の宇治神社を離宮(桐原離宮)としそこに住まいます。

菟道稚郎子うぢのわきいらつこ『播磨國風土記』の揖保郡の記載に拠れば「宇治天皇」と呼ばれていたそうです。

応神天皇には大鷦鷯尊おほさざきのみこと(のちの仁徳天皇)という、菟道稚郎子うぢのわきいらつこにとって異母兄にあたる皇子がおり、彼も内心、河内王朝を目指していました。

そこで、大鷦鷯尊おほさざきのみこと菟道稚郎子うぢのわきいらつこを暗殺し、自らが仁徳天皇として即位したのです。

ある言い伝えによれば、あがたでの宇治神社から神輿に乗っていく梵天菟道稚郎子うぢのわきいらつこの事で、離宮にいた菟道稚郎子うぢのわきいらつこが暗殺者によって連れ去られ―梵天は最後に粉々に引き千切られますが―この様子が菟道稚郎子うぢのわきいらつこが殺される様子なんだ、と云うものです。

その後、宇治は河内王朝の支配下になり、以後何度となく、河内出身の人間のよって蹂躙じゅうりんされ尽くします。(先述した南北朝期平等院の現在残っている建物以外、「戦の邪魔になるから」と全て焼き尽くした楠木正成しかり、応仁・文明の乱から山城国一揆の時期に我が物顔で領国を踏み荒らした畠山政長・義就しかり、戦国時代三好氏松永氏しかり…)その名残こそが奉賛会=他所者よそものの連中な訳です。

私の母―ちなみに母の実家は一時期、宇治妙楽に住んでいました―も、あがたの事を「あれは宇治の祭りじゃないから!」と言い切っています。

私も宇治びとの1人として、過去に何度となく蹂躙され尽くしたこの思い入れのある土地を毎度毎度他所者よそものに好いようには踏み荒らされたくはないと感じます。

宇治のイベント事は宇治の人間のみで行うべき!他所者よそものは断固排除してこそ本当の意味で❝宇治びとのとってのあがた❞が成り立つ!と信じます。

しかし、それでもなお他所者よそものによるあがたが続くようなら、いっその事、あがたというイベントをこの世から失くしてしまいましょう!!宇治には宇治神社から氏子である旧宇治郷(現在の宇治市宇治地域に神輿渡御される❝宇治まつり❞がちゃんと存在するのだから…


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posted by 御堂 at 00:00 | Comment(6) | TrackBack(0) | 歴史:コラム
この記事へのコメント
井上さま、当ブログへの来訪&コメント、有難う御座います。

大先輩でいらっしいますね!…という事は、宇治市になる前を体感されておられるのですね。

私の母(昭和10年生まれ)も、久世郡宇治町から宇治市に変わった際に「知人らへの住所変更届けが大変やった!」と聞かされています。

>小学校の思い出しかありませんが、梵天を載せた御輿が練り歩くのは見たことがありませんね。何よりも露店めぐりが一番の楽しみでした。昼は友達と、夜は家族で…

確かに、仰るように「昼は友達と、夜は家族で」露店めぐりを練り歩いた…というのが、県祭に携わっていない地元民の県祭の楽しみ方やと思いますね。

井上さまも宇治の実家へお帰りになられた際は、宇治ですごされた何かしらの想い出をお孫さんたちに昔語りなさって下さい。

最近では、懐かし語りする機会がなくなってしまい、私も母方の祖父母や伯父・伯母、そして何よりも母が体験した宇治での想い出を語り継ぎたいと感じています。
Posted by 御堂 at 2013年06月12日 19:47
県祭り(「あがたさん」と呼んでましたね)、いろいろと現状を教えて頂いて勉強になりました。私は御堂さんより一回り程、年を取っていますが、私の子ども時代も、あがたさんは、「よその祭りやさかいなぁ」と祖母も父も言っていたことを覚えています。祖父母の代までは妙楽に住んでいましたが、昭和10年頃に矢落に引っ越してきて、ずっと定住しています。私は高校からは実家を離れていましたので、小学校の思い出しかありませんが、梵天を載せた御輿が練り歩くのは見たことがありませんね。何よりも露店めぐりが一番の楽しみでした。昼は友達と、夜は家族で。仕事の関係で単身が長いので、定年になったら孫のいる宇治の実家に帰りことになりますが、「あがたさん」が一層楽しみになりました。
Posted by 井上 at 2013年06月12日 10:32
にゃんこさん、こんばんは!
来訪&コメント、ありがとうございます。

確かにそうでしょうね。県祭りとして盛り上がってるのは、“旧宇治”=江戸時代でいう久世郡宇治郷、明治以降で宇治市になるまでの久世郡宇治町の人たちでしょうから…

私などは小学校は今でこそ神明地区と広野地区だけど、中学校がこの宇治地区だったから、菟道地区の人たちとは同級生になった分だけ、他の地区とは温度差があったのでしょうね。

>住んでる場所が巨椋池を干拓した場所なので、歴史的でもないし

そんな事もないですよ!巨椋池も宇治の歴史に深く関わってる場所(水害の歴史や宇治川とのつながりetc…)なので、掘り下げれば色々な歴史が浮かび上がってきますから…
Posted by 御堂 at 2012年06月07日 18:39
宇治に生まれ育ちましたが、一度も行った事がないです。
今日になって、「あ、やってたん!?」ってぐらいで、時期も知りません。
周りの人も、特に興味がありそうでもないし、行く人もほとんど見ませんね。
地元の祭りなのにここまで知らないってどういう事なんだろうと思ってましたが
こういう事なのか?と、ちょっとわかった気がします。
でも、住んでる場所が巨椋池を干拓した場所なので、歴史的でもないし
そういう事もあるのかもしれませんねww

観光客気分で一度、いつか見に行ってみます
Posted by にゃんこ at 2012年06月07日 12:29
ゑつさん、来訪&コメント、ありがとうございます!

祭り当日、人、ヒト、ひと…でごったがえしてるでしょうね(笑)

宇治まつりは、先月5月8日からお神輿さんがその年の当番班が担いで、現在お旅所に鎮座されてはる状況ですよね。(因みに、昨年が10班やったから、今年は1班じゃないでしょうか…)

毎年困るのは、県祭に来られる人たちが置き去りにするゴミの山!6月8日に還幸祭がある分、ゴミを片づけるボランティアの皆さんのご苦労と言ったら…

ましてや、“祭りのあとは異臭だらけ”なので、そこに住まう商店主たちの事も考えて祭りを運営してもらいたいものです。
Posted by 御堂 at 2010年06月05日 18:44
うちの母親(旧宇治町生まれ)も、
「県祭りは、大阪の祭りや。」
「宇治の祭りは、6月8日(宇治神社還幸祭)や。」
と、言います。

ちなみに、家が一班なので、過去二回みこし引きました。
Posted by ゑつ at 2010年06月05日 08:21
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