“戦場のメリークリスマス”―戦国時代のクリスマス休戦

戦国期の永禄7年(1564)7月4日、当時、天下(「京都を中心とした周辺地域」=畿内)を治めていた三好長慶みよしながよしが死去しました。

翌8年(1565)5月19日には三好一門の有力者・三好三人衆(三好長逸みよしながやす三好政康みよしまさやす岩成友通いわなりともみち)によって将軍・足利義輝殺害事件が起こります。

その後、三好政権の内訌が起こり、三好三人衆と松永久秀まつながひさひでとの間で主導権争いが生じ、永禄9年(1566)2月17日、三好三人衆方の軍勢と久秀方の軍勢が摂津国住吉すみよし郡と和泉国大鳥おおとり郡とに跨っていた和泉国堺津(現在の大阪府堺市)の近郊、大鳥郡大鳥荘おおとりのしょう上芝かみのしば(現在の大阪府堺市上野芝)付近で対峙していました。

降誕祭(クリスマス)が間近に迫った頃、ちょうど堺に滞在していたイエズス会の宣教師ルイス・フロイス(Luís Fróis)が、両軍のキリシタン武士に対し、キリシタン相互の一致和合と愛を示すため、クリスマスのミサを催す事を呼び掛けたそうです。

すると、両陣営のキリシタン武士たち約70名が堺の会合衆えごうしゅうらが普段集会に使う場所を借り受け、クリスマスを祝うための飾り付けを施します。

降誕祭になった時、折から堺のまちには互いに敵対する二つの軍勢がおり、その中には大勢のキリシタンの武士が身受けられた。

ところでキリシタンたちは、自分たちがどれほど仲が良く互いに愛し合っているかを異教徒たちによりよく示そうとして、司祭館は非常に小さかったので、そこの町内の人々に、住民が会合所にあてていた大広間を貸借りしたいと申し出た。

その部屋は、降誕祭にふさわしく飾られ、聖夜には一同がそのに参集しました。ここで彼らは告白し、ミサにあずかり、説教を聞き、準備ができていた人々は聖体を拝領し、正午には一同は礼装して戻って来た。

そのなかには七十名の武士(※1)がおり、互いに敵対する軍勢から来ていたにもかかわらず、あたかも同一の国主の家臣であるかのように互いに大いなる愛情と礼節をもって応接した。

彼らは自分自分の家から多くの種々の料理を持参させて互いに招き合ったが、すべては整然としており、清潔であって、驚嘆に価した。

その際給仕したのは、それらの武士の息子たちで、デウスのことについて良き会話を交えたり、歌を歌ってその日の午後を通じて過ごした。

祭壇の配置やそのすべての装飾を見ようとしてやって来たこのまちの異教徒の群衆はおびただしく、彼らは中に侵入するため扉を壊さんばかりに思われた。(ルイス・フロイス『日本史』第1部第76章 堺でルイス・フロイス師がたずさわっていたもろもろの務め、ならびに同所で生じた他のことどもについて)

※1 七十名の武士
「三好殿幕下の七十三名の貴人たちはまったく納得して、すぐにもキリシタンになることを決心するに至った」(ルイス・フロイス『日本史』第1部38章 司祭(ヴィレラ)が奈良に赴き、結城殿、外記殿、および他の高貴な人々に授洗した次第、ならびに河内国飯盛山城における七十三名の貴人の改宗について)
「三好殿幕下の六十名の貴人が改宗した」(ルイス・フロイス『日本史』第1部54章 本年(一五六四年)および前年に、都地方で生じた幾つかのことについて)


降誕祭当日の夜にはキリシタンの武士たちが敵味方の区別なく集まり、共に懺悔ざんげしミサを行うなど交流したのだそうです。

こうした様子が余程珍しかったのか、クリスマスの模様を窺おうとして群集たちが押し寄せ、扉が壊れそうだった、とフロイスも記したほどです。

こうして、彼らがクリスマスのミサに参加した事で、当日は戦禍を交える事なく、事実上のクリスマス休戦となったのです。

クリスマス休戦といえば、第一次世界大戦中の大正3年(1914)12月24日から翌25日にかけて、主に西部戦線にあたるフランス北部フランドル地方で対峙していたドイツ軍とイギリス軍の兵士たちが共にクリスマスを祝ったとされる、一時的な停戦状態の事を思い浮かべる人もいると思います。

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さて、松永氏及び三好氏の軍勢の中で七十名ものキリシタン武士が降誕祭(クリスマス)を祝ったと事ですが、どんな人物がいたのか少しばかりピックアップしてみます。

永禄9年(1566)の時点ではいえば、上述した「三好殿幕下の七十三名の貴人たちはまったく納得して、すぐにもキリシタンになることを決心するに至った」に引き続く文章の中で、「その中には三人の首領ならびに重立った人たちがいた」と記載されています。その「重立った人」とは、三ヶさんか伯耆殿」「池田丹後殿」「三木判大夫殿」、そして「結城山城殿」とみられます。

まずは「三ヶ伯耆殿」ですが―

河内三箇城主(現大阪府大東市三箇)の三箇伯耆守頼照(洗礼名:サンチョ)の事で、三箇城は河内飯盛山城(現在の大阪府大東市と四條畷市にまたがる周辺)を本拠としていた三好氏の支城の1つであり、領内に1500人ものキリシタン信徒を擁すくらい、「三ヶ伯耆殿」は河内地方のキリシタンの長老的存在だった様です。宣教師たちも「三ヶ伯耆殿」を“敬虔なクリスチャン”として敬意を表しています。

次いで「池田丹後殿」は―

河内若江城主および八尾城主だった池田丹後守教正(洗礼名:シメアン)の事です。

続いて「三木判大夫殿」は―

後に安土セミナリヨ(イエズス会司祭・修道士育成のための初等教育機関)の第1期生で、イエズス会の「伊留満イルマン」(=修道士)として 摂津大坂で布教活動をしている時捕らえられ、洛中引き回しの後、長崎西坂で殉教したパウロ三木の父にあたります。

最後に「結城山城殿」ですが―

河内岡山城(現在の大阪府四條畷市岡山)の結城山城守忠正(洗礼名:エンリケ)の事です。彼の息子である左衛門尉も洗礼を受け、「結城アンタン左衛門尉殿」と記載されています。

この結城氏の領内もキリシタン信徒が多かったようで、周辺の村々の領民約3000人全てがキリシタン信徒だったそうです。

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この記事へのコメント

  • 中世の古文書

    この話の史料出典を探していたのですが、クラハトさんや岡田章雄さんの本には出ていなくて、検索して貴ブログにたどりつきました。ツイッターで引用させていただきましたのでご報告します。ありがとうございました。
    2013年12月25日 13:09
  • 御堂

    しばやんさん、こんばんは!

    このネタはたまたま本屋で立ち読みをしていた際に目についた記事からひらめいたのですが、ミサに参加した武士たちは以前から調べていたんですね。

    「秀次とキリシタン」の関連性を調べている途次、本文に挙げた人物のうち、三箇伯耆守頼照と池田丹後守教正にたどり着き、彼らが後に豊臣秀次の家臣になっていたのを知ります。

    秀次と彼らとの接点は何だろう?と考えて、ただ単に召し抱えられただけという視点もありますが、秀次がまだ孫七郎、信吉と名乗っていた頃、三好康長の養子だった事に注目し、もしかすると、秀次はその時分に彼らキリシタンとの交流が既にあったのでは?という疑問から調べていくうちに、こうしたエピソードに行き着いたんですよ!
    2011年03月08日 21:11
  • しばやん

    ルイスフロイスの「日本史」の中で、クリスマス休戦の記事がどこにあるか随分探しましたが、もっと早く御堂さんの記事を読めば良かったと思いました。

    しかし、この時集まったキリシタンの武士の名前まで調べられたのには脱帽です。
    2011年03月07日 23:15

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