聞こえなかった原爆―被爆ろう者の叫びを聴いてあげて!


昭和20年(1945)8月6日午前8時15分、広島に原爆が投下され、広島の街は未曾有の被害を受けました。

あれから65年の歳月が流れようとしています。

“ピカドン”と呼ばれた新型爆弾=原爆は、瞬時にして新兵器の威力と悲惨さを世界中に知らしめます。

しかし―

その凄まじい“ドン”という音が、聞こえなかった人たちがいます―被爆ろう者の人たちです。

その人たちは終戦後も情報から遮断されて、長い間、自分の身に生じた事を理解できなかったのです。

正確な実態数は把握されていませんが、約140人(「被爆ろう者を偲ぶ会」調査)に上るそうです。そのうち、91人が亡くなられ、現在は50人足らずになってしまったようです。

ろう者の方々にとっては、音もなく、まさに静寂の中に映った光景だが、それ故にその目には鮮明に想像を絶する惨劇が刻まれたに違いない。そして、その体験を言葉で伝えられないもどかしさを抱えながら、戦後を生きて来られたのです。

あるろう者は戦後、『被爆者健康手帳』をもらったが、それでもまだ事態が呑み込めず、知る術もないまま10年間経った頃、完成したばかりの広島平和記念資料館(原爆資料館/平和資料館)原爆の正体と自分は被爆した事を知ったといいます。

― ◇ ◇ ◇ ―

原爆で亡くなったろう者を弔う碑を建てたい」―

広島市内であった高齢ろう者の集いで、親交が深かった男性が後輩の男性に

「ろう者が犠牲になった事実と悲惨さを継承する必要がある」―

と、ゆっくりだけれど熱のこもった手話で語りかけます。その男性は、昭和27年(1952)8月6日の広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)の建立に際し、被爆ろう者の名前も刻んでもらおうと実態調査を図ったのですが、結局実態をつかめずにいたのです。

後輩の男性はその熱意に打たれ、思わず頷いたそうです。

しかし、公式な書類も存在しない状況では、なかなか進展しない日々が続きました。

転機が訪れます―

噂を聞いた手話通訳者の女性から協力の申し出をあったのです。その女性はろう者を両親に持つ人でした。

こうして、連絡や交渉の支援の輪が徐々に広がりをみせて「被爆ろう者を偲ぶ会」が結成される中で、1軒ずつ遺族宅を訪ねては話を聞き、『被爆者健康手帳』を持つ人を探して歩いたという。

聞き取りの中で、情報不足や生活苦、閉ざされた周囲とのコミュニケーション…聴覚障害があるが故、被爆の上に更に重なる苦労を抱えた人が多いという事実を感じたそうです。

また、『被爆者健康手帳』を取りそびれたままの人がいる事実を痛感します。これは、読み書きが苦手で市からの案内に気付かなかったり、証人探しなどを補佐してくれる手話通訳者が身の周りに居なかったりしたためでもありました。(ろう者が就ける職業は限られていて、しかもその多くが低賃金労働だった…)

そうした苦労の甲斐があり、先輩に背中を押された慰霊碑「原爆死没ろう者を偲ぶ碑」は平成15年(2003)8月18日、広島県立広島ろう学校(現、広島県立広島南特別支援学校=広島市中区)の校庭に完成をみたのです。

― ◇ ◇ ◇ ―

聞き取り調査を行っていく中では、手話通訳者の協力が欠かせないのですが、現実問題として手話自体がネックになる事もあるのだとか―

サインのような被爆ろう者の男性(右)の手話を読み取り、友人のろう者の男性(左)が現代手話に組み立て直す。手話通訳者(中)は両方の手話を見て意図を推し量る

例えば、あるろう者が自分が体験し脳裏に焼き付いた惨禍を、手や体、そして目で訴えているのに、現代手話に慣れ親しんでいる手話通訳者には全く通じず「殆んど分からずじまい」な状態なのです。

日本における手話は、嘗ては方言のように地域毎にばらばらでした。それ故に、高齢ろう者には、現代手話が分からない人が多いです。

それで、友人で現代手話も理解できる人にまず通訳してもらい、それを受けて手話通訳者が訳すといった「二段階通訳」の手法が採られるケースも多いようなのです。

しかし、それでも通訳作業が何度か止まってしまう度にろう者の方は「何故、分かってくれないんだ」と言いたげな悲しい表情をするのだとか―

一方で、「手話ができなくても筆談でカバーできると考えた取材者もいるのですが、当時ろう学校に通えなかった人もいるし、ろう学校に通っていても、基本的にろう学校は実践教育なので、読唇や発語といった口話教育が重視していたがために、ろう者の中には読み書きが苦手な方が多く、筆談での取材はあの日の記憶を十分に伝える事ができないでいるのです。

― ◇ ◇ ◇ ―

ろう者の体験は、聴覚障害があるが故に閉ざされた周囲とのコミュニケーションの壁に阻まれ、僅かな記録しか残されていないのが現実です。

被爆から65年という歳月が過ぎ、ろう者自身も高齢化が進んできています。

そこで、「いま話しておかないと、もう機会はない」と、当初は重かった手を雄弁に動かしてくれるろう者の方々や、戦争を知らない世代に対して、ろう者の被爆体験を記録に留めようとする動きが芽生えてきています。

手話劇のけいこ風景。「原爆の怖さを伝えたい」と、見やすい手話と演技を工夫している

広島市内のろう者と手話サークルによる手話劇「広島に生きて」は、ろう者である男性が「被爆体験を演技で継承しよう」と、自らの取材を基にシナリオを書き上げたものです。

大阪から息子2人を連れて広島市内の実家へ帰省していた女性が、原爆で母親と息子の3人を失うというストーリーで、約10年前に被爆ろう者の女性から聞き取った話をベースに作られました。

この男性は15年程前、被爆ろう者の体験談を初めて聞いた際に自分が原爆について何も知らない事にショックを受け、広島平和記念資料館(原爆資料館/平和資料館)の展示にも、ろう者の記録が少ない事に気付き、独自に被爆ろう者の取材を始めたそうです。

手話劇を思い付いたのは、取材した方も次々と亡くなられる中で、貴重な体験が風化してしまう恐れがあると考えたからで、原爆や戦争を知らない世代でも悲しみや思いを疑似体験する事ができると考えたそうです。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)デフサトウエンタープライズ社被爆ろう者を撮った広島原爆の証言を手話DVD化した『ヒロシマ〜被爆ろう者の証言〜』を8月21日に発売するそうですよ。

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※(参照)昭和20年8月、ヒロシマ 夏服の少女たちが綴った日記帳→
※(参照)禎子ちゃんの想い―クミコ♪INORI〜祈り〜→


 


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posted by 御堂 at 04:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム
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