歴史秘話ヒストリア「ぴあのすとおりい〜ピアノが語る明治・大正・昭和〜」(2)

今回もNHK総合で放送している「歴史秘話ヒストリア」の感想です。今回ピックアップされたのは、ピアノに情熱を傾けた方々のお話で、テーマは「ぴあのすとおりい〜ピアノが語る明治・大正・昭和〜」というもの。

エピソードのピックアップ(番組からの引用)―

エピソード2 大正・ふたりの天才ピアニスト

大正時代、日本に突如登場したふたりの天才ピアニスト。久野久子、小倉末子。
ふたりは、急激に西洋化が進む時代の中で、日本のピアノ芸術がついに西洋に追いつくのかともてはやされます。しかし、本人たちだけが感じていた西洋芸術の壁。ふたりは、栄光と悲劇、双方に彩られた人生を送ることに…。
日本人のピアニストはどう誕生したのか?―

最初の挙げる人物として、明治4年(1871))に第1回海外女子留学生として渡米し、10年間アメリカで過ごした永井繁(のちの瓜生うりゅう繁子)が浮かび上がります。

次いで、東京音楽学校瓜生繁子に教授を受けた幸田のぶが有名ですね。

時代が下って大正時代、2人の女流ピアニストが現れます―

片や久野くの久子。そして、もう一方が小倉末子です。

久野久子は、滋賀県大津市膳所町馬場(現、大津市馬場町)出身で、幼少期に近所の平野神社の石段から転落して右脚を負傷。久子の怪我の事実を隠した使用人のために適切な処置が受けられず、以降右脚に障害が残ります。(のちの事、ピアノのペダルが上手く踏めない程だったと云われています)。

しばらくして、久子は叔父に引き取られ、叔父の勧めで長唄や琴・三味線を習い、13歳の時に師範免状を授与されます。

しかしながら、「これからの音楽は邦楽ではなく洋楽」と邦楽の世界に限界を感じていた兄・弥太郎の勧めで、明治34年(1901)15歳の時に東京音楽学校に仮入学します。(当時の入学試験では専門実技はなく、邦楽実技が必修だったので、久子は難なく合格できたのだが、専攻すべきピアノについては仮入学してからのスタートをしている)

音楽学校の教官たちは、仮入学の久に対し、15歳という遅いスタートだという事、また、右脚の障害を考えた場合の適性などが問題視(これについては、退学勧告を受けた久子がすぐさま病院へ行って検査を受け、「支障ナシ」との診断書をもらって学校側に叩きつけている―)され、諦めて退学する事を奨めたと云います。

久子の成績は当初は芳しくなかったのですが、連日7時間以上に及ぶ猛練習を行って上達(「指から血が出るのも知らずに」練習したという…)し、実技成績もドンドン上がっていき、翌35年(1902)に東京音楽学校本科器楽科として正式に入学します。

明治39年(1906)には本科器楽科を主席で卒業し、研究科に進む傍ら、翌40年(1907)から助手を兼任します。

さらに明治41年(1908)に研究科を修了。そのまま教官(講師)として母校に残り、同43年(1910)に助教授に昇格します。

ところが、大正3年(1914)久子は交通事故に遭い、頭と胸を負傷。自動車事故で一時生死を彷徨うが翌4年(1916)に復帰します。

大正6年(1917)、東京音楽学校の教授に昇格します。

大正12年(1923)、文部省の海外研究員という名目(実は自費)で渡欧し、ドイツのベルリンで生活を始め、翌13年(1924)にはオーストリアのウィーンに移住。

翌14年(1925)、ウィーン郊外のバーデンでエミール・フォン・ザウアー(Emil von Sauer)に師事し、個人レッスンを受け始めます。

しかし、同年4月20日、バーデンの滞在中のホテルの屋上から中庭に投身。発見され病院に搬送されるが、約8時間後に死去。享年38歳。

自殺の原因として、師事したザウアーから基礎からのやり直しを言い渡された事に絶望したなどの憶測(現場近くに久子が演奏の難しさをメモした多くの楽譜が残されていたために…)が飛び交っている。

― ◇ ◇ ◇ ―

一方の小倉末子は、岐阜県大垣町(現・大垣市寺内町)出身で、幼少期に両親を失って以降は、貿易業者だった兄・庄太郎に引き取られ、神戸に移住します。

資産家である兄の邸宅にはピアノがあり、末は割と早い時期に兄の妻で義姉のマリア・ニッチェ(ドイツ・ベルリン出身の女性)からピアノの手解きを受けます。

その後、兄の奨めにより神戸女学院音楽科(現、神戸女学院大学音楽学部)に進学。

明治44年(1911)、東京音楽学校に入学するも、翌45年(1912)、マリアの進言によって留学を奨められ、東京音楽学校を中退。

同年、通訳として同行するマリアと共に、ドイツ・ベルリンに渡欧。ベルリン王立音楽院ピアノ科に見事合格し、カール・ハインリヒ・バルト(Karl Heinrich Barth)に師事します。

だが大正3年(1914)、第一次世界大戦が勃発したため、日本とドイツは国交断絶状態となり、末は戦禍を避けるためベルリンを去り、アメリカ・ニューヨークに渡ります。

この間、コンサートに出演して激賞(『ニューヨーク・タイムズ』)され、翌年のコンサート契約を勝ち取ります。

大正4年(1915)、シカゴのメトロポリタン音楽学校から招聘され、ピアノ科の教授に就任します。

大正5年(1916)4月、日本へ凱旋帰国し、同年5月、東京音楽学校の講師に就任。翌6年(1917)には教授に昇格します。

久野久子小倉末子は揃って同時期に東京音楽学校の教授に就任しています。それぞれに欧米に対し一歩も引けを取らないという期待が一心に集まります。しかし当の本人たちは欧米とのレベルの差を充分過ぎる程痛感していたのです。

久野久子の悲劇は、まさにそんな風潮での出来事でした。

― ◇ ◇ ◇ ―

エピソード3 昭和・戦争とピアノ
太平洋戦争中、日米両軍は、ピアノを兵器とし、意外な方法で戦場に投入します。日本でピアノは、敵の潜水艦や戦闘機の音を聞きわけるための「音感教育」に使われ、一方、アメリカ軍は戦地用ピアノを開発し、兵士たちの士気を向上させます。そんな中、ひとりの日本人少女のピアノが、敵味方だった日本人とアメリカ人を結びつけます。外国の戦場から日本に連れてこられた外国人捕虜たちが、収容所の外から聞こえてくる少女のピアノを聴き、終戦後、感謝の気持ちを伝えに来たのです。
大正時代も末期の1920年代になると、ジャズが流行し始め、また、ラジオ放送の開始により、大衆文化が花開くとピアノもそのブームの一部として大衆に受け容れられます。

ところが、昭和に入り、戦時色の様相が強く表れると、ピアノは戦争の小道具として使われるようになり、そうした中で、小倉末子も否応なく、戦争という風潮の中に巻き込まれていきます。

太平洋戦争が勃発し、学校教育の場も愈々戦時色に染まり出すと、軍事教練などが幅を効かせ、末子たち芸術教科の教員たちは居場所を失っていきます。

芸術・文化の象徴でもあるピアノでさえ、軍務教育の一環として利用されるのです。

甲陽学院に現在残るピアノがあります。「聴覚」を戦争に役立てるという方針の下、「音感教育」に使われたのです。

陸軍船舶情報連隊(兵庫県西宮市)では対潜水艦警戒が任務となっていて、聴音機などを使って音波を発射し、その反射から魚雷なのか潜水艦なのかを判定をするための「音感教育」を育むためにピアノが使われたのです。

一方でアメリカ軍は、スタインウェイ&サンズ製の「ヴィクトリー・モデル」という戦地で使用するピアノが投入されます。その目的は海外で戦う兵士の慰問や士気高揚のためでした。

昭和19年(1944)、末子東京音楽学校を退職し、各地を巡って演奏会を開きます。過去に関東大震災(大正12年=1923)の時もピアノ演奏で慰問をしています。

ピアノが戦争に使用されていく様を、末子はどんな思いで見ていた事でしょう。末子は同年に死去。享年53歳。

― ◇ ◇ ◇ ―

そんな戦時下も押し詰まってきた状況の中、1人の少女がある奇跡を起こすのです。

この少女の家に残されたピアノは小倉末子が生前に使っていたものだそうです。

実はこの少女は音楽学校に入学して小倉末子に師事する予定でした。

ところが、小倉末子の突然の死去に伴い、そのピアノを譲り受け、このピアノで毎日練習に励んでいました。

そんな少女の奏でるピアノの音色に温かな視線を送る人たちがいました。

それは外国人捕虜の人たちでした。

実は、少女の家の前には外国人捕虜の収容所があったのです―

それは昭和20年(1945)の夏の暑い盛り、少女がいつものようにピアノの練習をしていると、その演奏を収容所の捕虜たちが聴いていたようです。

その数は日に日に増え、収容所の屋根の上にずらっと並んで人だかりだでき、少女が奏でるピアノ演奏に聴き入っていたのだとか…

終戦後、この捕虜の人たちが帰国の途に着く前に少女の家にお礼の挨拶としてチョコレートなどの軍事物資を持参して訪問したそうです。

そして別れ間際、ジープに乗って帰国の途に着こうとする彼らは、少女に向かって、笑顔で何度も何度も手を振っていたのだとか―

これってまさに、“音楽に国境はない”って理念の実践ではないでしょうか。国籍や人種を超えて、小倉末子の想いと、それを受け継ぎ、奏で続けた少女の思いがピアノの音色にのって響き渡ったといってもいいのでしょうね。

― ◇ ◇ ◇ ―

この秋、神戸女学院大学図書館本館において、「100年前の卒業生:世界が認めた最初の日本人ピアニスト小倉末子(1891〜1944)の軌跡」という展示会が催されます。

期間は10月1日(金)〜12月23日(木)まで。入場無料。詳細は神戸女学院大学企画広報室まで。

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※(関連)歴史秘話ヒストリア「ぴあのすとおりい〜ピアノが語る明治・大正・昭和〜」(1)→

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※(参照)大津市膳所出身のピアニスト―久野 久―(「Yagiken Web Site」)→
※(参照)母のピアノ…@(「michaela's diary」)→
※(参照)母のピアノ…A(「michaela's diary」)→
※(参照)ピアノ物語〜エピソード2(「michaela's diary」)→


 


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この記事へのコメント
michaelaさま、今回の件につきまして快諾頂けました事、誠にありがとうございます。
今後とも、michaelaさまもお母様も宜しくご自愛くださいませ!
Posted by 御堂 at 2010年08月06日 14:23
早速ありがとうございました!
今後ともよろしくお願いいたします。
Posted by michaela at 2010年08月06日 10:01
michaelaさま、当方への来訪&コメントありがとうございます。

早速ご承諾頂きまして感謝申し上げます。また、ご指摘頂きました点も修正を施しましたので、何卒お願い致します。
Posted by 御堂 at 2010年08月06日 09:55
ブログへのご訪問、ありがとうございました。
詳しく調べていらっしゃいますね!

ブログをご紹介くださるとのこと、ありがとうございます。どうぞお使いください。
3件ともとのこと、その方がありがたいです。
ただ、貴ブログの中の母の実名を、イニシャル(K.Y.もしくはY.K.)にしていただけますか?
番組で実名は出ていることではありますが、一般人の個人情報になりますので。
よろしくお願いいたします。
Posted by michaela at 2010年08月06日 08:16
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