歴史秘話ヒストリア「ぴあのすとおりい〜ピアノが語る明治・大正・昭和〜」(1)

今回もNHK総合で放送している「歴史秘話ヒストリア」の感想です。今回ピックアップされたのは、ピアノに情熱を傾けた方々のお話で、テーマは「ぴあのすとおりい〜ピアノが語る明治・大正・昭和〜」というもの。

エピソードのピックアップ(番組からの引用)―

エピソード1 明治・武士とピアノ

明治時代、国産ピアノ開発に挑戦した職人・山葉寅楠(元紀州藩士)と東京音楽学校初代校長・伊澤修二(元信州高遠藩士)。ふたりの元武士は、西洋楽器の王様といわれるピアノの開発に果敢に挑みます。その背景には、西洋の仲間入りを目指そうという明治時代の日本人の強烈な思いがありました。
日本に最初にピアノをもたらしたのは、現在いまから187年前の文政6年(1823)から同12年(1829)まで長崎・出島のオランダ商館付医官として赴任したフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold)で、イギリス・ロンドンのロルフ父子商会(William Rolf & Sons)が1814年(文化11)頃から1820年(文政2)にかけて製造したと思われるターフェルピアノ(独・蘭語)、またはスクエアピアノ(英語)と呼ばれていた5オクターブ半の鍵盤を持つピアノを日本にもたらします。

それから約60年後―日本初の国産ピアノが誕生します!

明治21年(1888)、元士族の出で、医療器具の修理工をしていた山葉やまは寅楠とらくす日本最初の本格的なオルガン(リード・オルガン)の製造に成功するのです。

元々、寅楠の父親が出仕先の和歌山藩で天文方を務め、天文暦数や土地測量・土木設計などの技師を担っていた事もあって、幼少時から機械いじりが得意でした。

寅楠は大阪でまず時計商の徒弟として奉公し、その後長崎のイギリス人の下で5年間時計の修繕法を学び、その後大阪の医療器具店に修理工として働きます。やがて、寅楠は大阪で店を構えますが失敗し、夜逃げ同然に東京へ逃げ出すのです。しかし、東京に出ても何一つ上手くいく事はなく、各地を転々とする中、浜松の県立病院で修理工を捜している事を知人から聞いて同17年(1884)頃にそこに就職。そこで医療器具の修理や時計など機械器具全般の修理などを請け負って生計を立てていました。

そんな寅楠に明治20年(1887)、浜松尋常小学校(現、浜松市立元城小学校)からアメリカ製のリードオルガンの修理の依頼があったのです。

ひょんな事からリードオルガンの修理を手掛けた寅楠は、リードオルガンの内部を調べ、その構造を細かく何十枚もの図面に模写し、故障の原因(→バネが2本壊れていた)を突き止め、約1か月後、オルガンを修繕したのです。

修繕をする過程で、寅楠はこの仕組みなら自分にも作れそうだという探究心が沸き、 オルガン作りへの夢が花開くのです。

寅楠は知り合いで飾り職人である河合かわい喜三郎きさぶろうに協力を仰ぎ、オルガンの製作に取り掛り、翌21年(1888)に国産第1号となるオルガンの製造に成功するのです。

― ◇ ◇ ◇ ―

早速、寅楠たちは浜松尋常小学校や静岡師範学校(現、静岡大学教育学部)に持ち込みますが、その評価は芳しいものではありませんでした。

どうやら音程がばらばらだったようなんですね。そこで、静岡県令(現在の静岡県知事)の関口隆吉(旧幕臣)に東京音楽学校(現、東京芸術大学音楽学部)の校長である伊沢修二を紹介してもらい、東京で調べてもらう事にしました。

寅楠喜三郎の2人は、天秤棒でオルガンを担いで運び、“天下の嶮”で名高い箱根の難所を越えて徒歩で250km先の東京へ向かいます。

東京に辿り着き、伊沢修二にオルガンをみてもらった2人ですが、伊沢の評価から「調律が不正確」な事が原因でした。

すっかり落胆した寅楠に対し、伊沢は調律の勉強を勧めます。そこで、寅楠は1か月程東京音楽学校で聴講生として調律や音楽理論を学びます。

この点、伊沢自身もアメリカに留学した際、元来、三味線や琴の音色に馴染んでいた日本人には感覚的に西洋の音階が上手く呑み込められず、かなり苦労した経験を持っていたのです。(※1)


※1
日本古来の雅楽や能楽、三味線などのメロディーは、黒鍵だけで弾けるような5音階(♪ドレミソラ)であった。それに対し、西洋のメロディーは、♪ドレミファソラシの7音階であるために、 育った音楽環境の違いから、7音階になかなか馴染めなかったようですね。

すなわち、ハ長調でいうところの4番目の♪ファと7番目と♪シの感覚が日本には馴染みがなかったのです。

そこで、考え出されたのかは知りませんが、日本古来の音階も含みつつ西洋の音階に似せるという感じで、長調の音の構成音を使った♪ドレミソラ♪の「ヨナ抜き音階」を創り出したのだとか…

明治初期の頃の日本の音名(階名)は主に、

1(ヒ)、2(フ)、3(ミ)、4(ヨ)、5(イ)、6(ム)、7(ナ)
と言っていました。これでみると、4番目の♪ファは「ヨ」、7番目と♪シは「ナ」になってますよね。

但し、西洋の音楽の中でも「ヨナ抜き音階」と同じ音階で出来ている曲―例えばスコットランド民謡の♪蛍の光―などは、馴染み易かったようですが…

こうした「ヨナ抜き音階」で作曲された楽曲って、例えば「上を向いて歩こう」、「木綿のハンカチーフ」、「北国の春」、「夢追い酒」、「昴」などが有名の様です。

これが明治後期に入って、西洋音楽が導入されて、

音名
英米式−C(シー)、D(ディー)、E(イー)、F(エフ)、G(ジー)、A(エー)、B(ビー)
独逸式−C(ツェー)、D(デー)、E(エー)、F(エフ)、G(ゲー)、A(アー)、H(ハー)
日本式−ハ、ニ、ホ、ヘ、ト、イ、ロ
階名
♪ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド♪
※なお、フランスやイタリアでは音名と階名は統一されていて、♪ドレミファソラシ♪となってます。

という形になったんですね。


― ◇ ◇ ◇ ―

東京で調律法を身に付けた寅楠は、再び喜三郎と共にオルガンの製作を始め、その2か月後、第2号目のオルガンが完成するのです。

再び、箱根の山を越えたこのオルガンですが、この度は伊沢の前で素晴らしい音色を響かせる事になりました。(そのまま東京音楽学校に寄贈されます)

こうして、寅楠のオルガンが誕生し、さらに明治22年(1889)には合資会社山葉風琴製造所が設立されます。(オルガンの事を風琴と云っていました―)この山葉風琴製造所は出資引き揚げにより2年後に解散しますが、寅楠喜三郎らと共同で「山葉楽器製造所」として再出発し、明治30年(1897)日本楽器製造株式会社(現、ヤマハ株式会社)初代社長となります。

― ◇ ◇ ◇ ―

寅楠はその技術を基にかねてからの懸案だったピアノ製造へと着手します。

明治32年(1899)、寅楠はアメリカへ5か月間の視察旅行に出て、キンボールやメイソン&ハムリン、スタインウェイ&サンズなどを視察したり、生産加工機械を購入します。

アメリカから帰った寅楠はまず会社の組織を改変し、優秀な若い世代を抜擢していきます。その中には11歳で入社し、“発明小市”と呼ばれるなど才能を発揮する河合小市(のち河合楽器製作所創始者や山葉直吉(虎楠の姪の養子)、松山大三郎らがいました。

明治33年(1900)、いよいよ寅楠がアメリカで買ってきた加工機械を使って、国産第1号となるアップライトピアノを誕生させます。さらに、同35年(1902)にはグランドピアノを完成させるのです。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(関連)歴史秘話ヒストリア「ぴあのすとおりい〜ピアノが語る明治・大正・昭和〜」(2)→



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