“中華帝国初の女帝”といわれる則天武后が生まれる100年以上も前、中国史上初の女性権力者が存在していました!
その名は文明太皇太后
番組のタイトルは「北魏馮太后」。
って事で、チョットだけ予習しましょう!
時代は
五胡というのは、中国の魏晋南北朝期に、中国華北部に侵入した遊牧騎馬民族の
北燕という国は、元々は長楽信都(現在の河北省
こうして、馮太后がまだ幼い時分に祖国は滅んでしまったのですが、馮太后の父、馮
しかし、その父も罪を問われ、誅殺されてしまうのです。
まだ幼かった馮太后は、北魏太武帝の左
美貌と知性を兼ね備えた馮太后は
ところが、文成帝は25歳という若さで崩御してしまい、馮太后は悲しみの余り、火葬中の文成帝の遺体に身を投じ、後追い投身自殺を図りました。
幸いにも侍女に救出され、一命を取りとめるのですが、余程2人の愛情の深さを窺い知れるエピソードかもしれませんね。
悲しみを乗り越えた馮太后は、拓跋
北魏では、次期皇太子が立太子する際、「立子殺母」(皇太子の実母には死を賜る)といった取り決めがありました。そのため、拓跋弘の生母である李貴人は死を賜わります。
北魏の孝文帝以前の歴代皇帝たちは、皇后には他国の国主の血縁者を迎える一方で、皇太子の実母を殺害する事で、皇后による垂簾朝政や外戚の専横を防止する独自の政策を採ってきた訳です。それ故に、身寄りの少ない=親類縁者の少ない女性に皇太子を生ませ、皇后が皇太子を養育する方針がありました。
ところが、その一方で―
北魏では「一家の長が亡くなると、その跡を継いだ子は自分の生母以外の父の妃たちたちを息子が譲り受けるというレビラト婚の慣習(=死亡した夫の代わりにその兄弟が結婚する慣習)ってものがありました。
その目的は、最初の婚姻で結ばれた両親族間の絆を維持し続けようとする事にあり、遊牧系に多くみられる慣習です。
実は、のちに北魏第6代皇帝となる孝文帝の母親は馮太后ではなかったか、という学説が存在します。
上記の様に、当時の遊牧系にはレビラト婚の慣習があった訳で、それならば献文帝は、遊牧系の慣習に従って義理の母ともいうべき馮太后を妻とし、そして孝文帝が生まれたというんですね。
献文帝が成長するにつれ、次第に馮太后との意見に食い違いが生じ、献文帝は強迫されて、長子・拓跋
そんな一触即発な状況の中で、馮太后の寵臣である李奕を献文帝は殺害してしまいます。
ここに至り、馮太后は献文帝を毒殺、まだ幼い拓跋宏(のちの第6代皇帝・孝文帝)が即位します。
初期の頃は、丞相である乙渾が専権を揮いますが、次第に皇帝をないがしろにする発言も目立ち、皇位の簒奪しようと謀ったため、馮太后は計略を用いて乙渾を処刑します。
以降、政務の一切は馮太后が取り仕切る事となり、馮太后は北魏の最高権力者として君臨する事になったのです。まさに、北魏の歴代皇帝たちが阻止してきた皇后による垂簾朝政や外戚勢力の専横が華開く事となります。
しかし、馮太后は政敵一派を滅ぼし、李冲らの漢族士大夫を重用したので、同姓不婚・俸禄制・均田制・三長制・租調制など―といった大いなる改革が施された。
孝文帝14年(490)9月、馮太后は病を得て逝去。享年49歳。
残された孝文帝は、幼き頃より馮太后によって徹底した儒教的教養を教え込まれていたため、遊牧系民族である事を自己否定。さらに、徹底した漢族化が進み、これにより北魏は全盛期を迎える事になります。
北魏馮太后といっても、知ってる人が少数派なくらいマイナーな人物と思うでしょうが、実は後の中華帝国の繁栄はこの女性の施政から始まってと言って過言ではない程、重要な人物なのです。
時代背景としては、五胡十六国時代を間に挟んだ魏晋南北朝期。前期漢民族支配が崩壊し、北方民族と漢民族の融合により、新しく芽生えた後期型漢民族支配を確立させた北魏王朝の興亡が北魏馮太后では描かれています。
北魏馮太后が確立した政治体制は、それこそ同時期のアジア諸国に大いなる発展をもたらし、新羅では善徳女王が、日本では光明皇后が、そして周の武則天へと拡がっていくのです。
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