「庄屋不帰依」

『毎日新聞』が掲載している『余禄』にちょっと面白いネタがあったので、軽く調べてみました―

その内容は余録:選挙の“伝統”」(『毎日新聞』平成21年=2009=8月30日付)というもので、同日に行われた第45回衆議院議員総選挙を前にしてのコラムなのですが、その際にテーマとなったのが江戸時代後期に行使された「庄屋不帰依」という庄屋(村のおさ)のリコール運動についての記載がなされていました。

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「庄屋不帰依」とは、今の言葉でいえば、百姓民による騒擾などで村役人の長である庄屋の罷免を要求する、すなわちリコール運動の事を指します。

江戸時代、村請制の下では、村役人が広範囲にわたる権限を委ねられていたために、村役人は自己の判断で事を進める機会が多くみられ、不正な行為をする者が後を絶ちませんでした。

そんな中で、江戸時代後期の文化5年(1808)に河内国古市郡古市村(現、羽曳野市古市)で騒動が生じるのです。

この古市村は南大和から河内に入る吉野街道沿いに立地し、また東高野街道も通っていた点、あるいは大和川と石川の合流点に近い点など-物資輸送の集散地にあたり、要衝の地でした。

この古市村は元来、新検・古検・三郎左衛門方の3株に分かれて、それぞれに庄屋が存在していました。中でも新検・古検は源左衛門という者が庄屋兼帯をしていたようです。

その源左衛門が天明3年(1783)に死去し、その跡役に11歳になる息子の源五郎(定治郎)が就き、親類筋の三郎左衛門と伯父の久左衛門の2人が後見役となりました。

やがて源五郎(定治郎)も自立しますが、11歳の時、病気にかかってしまい、前述の三郎左衛門と共に善左衛門という者が「預かり」という形で庄屋兼帯をする事となったのですが、この2人が共に三郎左衛門株の所有者だった事が話をややこしくさせていきます。

すなわち、この時点で、新検・古検・三郎左衛門方の3株は、全て三郎左衛門株を所有していた三郎左衛門と善左衛門に集約するという「三株兼帯差配」の状態が起きてしまったのです。

そうした事態に新検・古検の百姓村民たちは危機感を募らせ、享和元年(1801)8月、従来からの源左衛門の血筋の者を庄屋にと「源左衛門庄屋見立」の請願を代官所に行います。

ところがこの時、源左衛門を庄屋として「見立」(=選定)する事を承知した者166名に対し、不承知な者であると表明した者が23名いたのです。村内が分裂してしまった訳です。

ましてや、「三株兼帯差配」をしていた三郎左衛門が文化4年(1807)に死去します。三郎左衛門は跡役は息子の政治郎に譲り、その遺言では「預かっていた」庄屋役を源左衛門に差し戻す様に伝えていました。

そうした状況の一切合財が一気に集約し、上記の「庄屋不帰依」という 庄屋のリコールを要求する運動、そして庄屋の選挙が行われたのです。

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その選挙に使用された投票用紙が古市町大字古市の旧家から発見されました。

大小様々な紙に種々の形式で記載されている投票用紙で、その中には「庄屋入札いれふだと書かれたものがあり、一般的に“選挙”はそう呼ばれていたようですね。

共通するのは全てに投票した者の署名捺印がある記名投票である事、またその多くが包紙に包んで、上封に「〆」と捺印して封じられている点でしょう。

※話は脱線しますが―

記名投票を実施するという事は、投票にはある程度の読み書き能力が必要な訳で、各投票者が自分の名前と投票する相手の名前を書ける事が最低条件であって、役人側も村側もそれを前提として投票を実施しています。

という事は、古市村に住む家長たちの全てがその程度の識字能力を有していた事が分かり、それは寺子屋教育の普及と村人たちの教育水準が向上していた事が分かりますね。

それは上述の様に、古市村が物資輸送の集散地にあたり、要衝の地であった、つまり先進地域であった事と関わりますね。

さて、話を戻して―

投票用紙の一部を垣間見ると、

  新検方 古検方 二方儀ハ源左衛門殿へ庄屋仰付成可被下候
                           百姓 善四郎 黒印
    篠山十兵衛様御役所


という記載がなされています。

さて、この宛所あてどころに当たる「篠山十兵衛」という人物ですが、当時大坂代官所に在勤していた篠山十兵衛景義という人物(篠山は寛政5年=1793=5月から文化6年=1809=3月に至る16年間、大坂代官所に勤めていた)と思われます。

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この投票用紙が入れてあった紙袋の表書には、

  新検古検入札
   人数弐百拾弐人
     内
   百九拾人入
   残拾九人他行
    内拾壱人、追入別符、
                             河州古市郡古市村


と記載されていました。これをまとめてみると、
  • 有権者は212人
  • そのうち、190人が在地投票をし、
  • 残る19人は他行中であったが、うち11人は不在投票をした
という事が解りました。

有権者212人については、この投票が行われた文化5年(1808)より少し前の享和元年(1801)の新検・古検の指出帳に人数は922名、家数は227軒が記載されており、この「庄屋入札」の選挙権は貧富の差に関わりなく、家単位で有していたものと考えられます。

その場合、戸主及びその代表者が有資格者であるはずですが、投票者の中には後家の2票も含め、女性の名前が13票もあり、婦人も家を代表して投票できたようです。

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さて、投票された結果をみると、源左衛門という人物を庄屋に希望している者が一番多く、161票を獲得しました。しかも、各集落から万遍のない支持を得ています。

しかし、一方で、源左衛門を希望しない者も40票存在するのです。その1つの例として、

  二方株庄屋之儀、政次郎殿預ケ、年寄弐人後見附、次郎兵衛様・治兵衛様右弐人之内、
                       八左衛門 黒印


というものがあります。これは、政治郎を支持するが、政治郎が未だ幼少のために年寄に後見させるという条件付きの内容です。この種の意見のものが全部で34票あり、しかも、源左衛門の時と同様に各集落に散在しているのです。

これに対して、

  両株共年寄廻役御仰下御願上候、東丁宇兵衛閏(順)まわり庄屋可被成候、
                       清兵衛

のように、特定の人物を決めないで、年番制を提案した見解を示しているのが6票もありました。

とりわけ別包になっていた「追入別符」、すなわち不在者投票の開票状況をみると、
  • 政治郎へ庄屋預け年寄次郎兵衛・治兵衛の後見を支持する者が4票
  • 後見に年寄次郎兵衛・治兵衛と南株年寄善衛門が加わる事を希望する者が1票
  • 次郎兵衛・治兵衛に庄屋を希望する者が3票
  • 源左衛門を支持する者が2名
と源左衛門への支持は少なく、寧ろ不支持を表明した者の方が多かった事が判りますね。

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新検・古検の村民たちは「源左衛門庄屋見立」の請願をした訳ですが、その根幹にあったのは“三株庄屋・年寄年番制”つまり各株の平等化・自立化でした。

そうした思惑の中、源左衛門を庄屋として「見立」(=選定)する事を承知した者166名と、不承知な者23名に分裂してしまいます。

前者は、従来からの庄屋の家柄である源左衛門の再選を見込んで選挙を強行しようと目論む勢力、後者は投票を拒否してでも、源左衛門の再選を阻み、例え当選しても絶対に服従しないと唱えた勢力の争論でした。

この結果、文化5年(1808)8月14日、大坂代官・篠山十兵衛より分裂していた源左衛門支持派166名と不支持派23名、及び村役人たちは役所に出頭を命じられ、
  • 源左衛門支持派に対し、「源左衛門を庄屋役にしない」旨を、
  • 源左衛門不支持派には庄屋役見立の請願の差し戻しを、
それぞれ通達し、「入札無効」の指令が言い渡されたのです。

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以上の様に、古市村の各集落の民たちは入札という手段でもってそれぞれの意見を主張し、それが反映されたから投票に結果が表れたのだ。だから有権者の皆さんも投票に行こう!―と「余録」の執筆者の方は仰りたかったのでしょうけど、現実はそんな甘いもんじゃない!その内実を見れば、主張はしてもダメなものはダメ!という行政判断を見落としていますよね。

※(参考文献)津田秀夫著『近世民衆運動の研究』
※(参考文献)村上直著『江戸時代の代官群像』
※(参考文献)『羽曳野市史』第2巻

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