北海道は140年目に突入!

8月15日―

皆さんは「8月15日」というキーワードから何を連想しますか?

その多くが「終戦の日」と答えるかもしれませんね。

しかし、この「8月15日」は、北の大地に住まう皆さんにとっては記念すべき日でもあるんですよ。

すなわち、北海道が誕生した日なのです。

今から140年前の明治2年(1869)8月15日、従前呼称されていた蝦夷えぞ地」から「北海道」へと改称された訳です。

明治2年8月15日付太政官布告第734号
蝦夷地自今北海道ト被称十一箇国ニ分割国名郡名別紙之通被仰出候事

因みに、本土の人間たちは「蝦夷」「えぞ」とか「えみし」と呼称していました。

しかし実のところは、アイヌ語で「人間」という語意を持つ「enju」「emchiu」がそれぞれ音読で「えぞ」「えみし」と呼称されたそうです。

また、「蝦夷」という漢字の当て字は、アイヌ民族の風貌がエビの様にひげが長かった事や、夷(=未開の異民族)だった事からきている様です

北海道といえば、日本列島に存在する地方公共団体、1都1道2府43県の中で唯一「道」の呼称をしている場所ですが、元々、本土に住んでいた和人たちは蝦夷地、或いは北州、十州島などと呼称していました。道庁所在地は札幌市ですね。

― ◇ ◇ ◇ ―

慶応4年(1868)4月、江戸城が開城した翌日の12日、新政府は蝦夷地に箱館裁判所を設置して五稜郭を拠点とし、さらに翌閏4月24日には箱館府と改称されました。

9月に明治と改元された翌月である明治元年10月、榎本武揚の率いる旧徳川将軍家遺臣たちの軍勢が蝦夷地に到来し、箱館府の軍勢と戦端が開かれます(箱館戦争)が、撃退され、箱館府の官吏たちは、青森へ脱出します。

榎本ら旧徳川将軍家遺臣の軍勢は、五稜郭へ入城します。さらに、旧徳川将軍家遺臣の軍勢は、11月22日に松前藩の拠点・館城を攻略し、蝦夷地を平定。12月15日、榎本らは>「蝦夷徳川将軍家遺臣団」による箱館政権(※1)が成立します。

※1 「蝦夷徳川将軍家遺臣団」による箱館政権
「蝦夷共和国」とも呼称されているが、政権樹立と同時に行われた、日本で最初の「公選入札(選挙)」では、選挙権を有したのは旧徳川将軍家遺臣の軍勢の中の士官クラス以上であり、下士官や兵卒クラス、ましてや箱館に居住する住民たちには選挙権は行使されていないため、共和国扱いはできない。


そんな榎本ら「蝦夷徳川将軍家遺臣団」による箱館政権が翌明治2年(1869)5月18日に降伏した後の7月8日をもって箱館府は廃止され、開拓使が設置されます。(但し、行政手続き上の問題から、7月17日~24日までの時期、箱館県と改称していたそうです)

― ◇ ◇ ◇ ―

新政府は開拓使の設置に伴って行政地域の名称変更を検討。幕末期に蝦夷地を探検したり、アイヌ民族との交流を交わしていた開拓判官の松浦武四郎の建白を採用します。

武四郎は雅号を「北海ほっかい道人どうじん」と言いましたが、武四郎は蝦夷地に代わる名称の案件として、
  • 加伊かい道」
  • 海北道
  • 海東道
  • 日高見ひたかみ
  • 東北道
  • 千島道
の6案を提示しました。武四郎が安政4年(1857)に道路調査のため天塩川を遡って探査していた際のお話です。

音威子府おといねっぷ村の川筋に在るアイヌ人集落(コタン)の家に宿泊した時にアエトモという古老(エカシ)と話をしたのですがその時、「カイナー」というアイヌ語の語意について次のように教えてもらいました―

「カイ」とは「この国に生まれたもの」、「ナ」は敬語を意味する、と知りました。(『天塩日誌』)

武四郎は土着であるアイヌ民族への敬意を表す意味で、「加伊カイ」、つまりアイヌ民族の人たちが自分たちの国を呼称する語意を含めた「北加伊道」を提示すると共に、他にもアイヌ語の地名を基に国名や郡名を選定します。

最終的には、「北加伊道」を基本ベースに「海北道」との折衷案として最終的に「加伊」を「海」にした「北海道」が決まったのです。

折しも、7月8日をもって全国に布告したのが新政府の中でも目的を持った「維新政権」の考え方が律令制に倣う事だったので、東海道、東山道などに「北海道」が加わり、五畿八道が敷かれ、それに合わせた感じになったのです。

音威子府村には現在「北海道命名の地」の碑が立てられています。

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