武則天と武周革命―その1

中国大陸における歴代王朝の中で唯一、女帝として名を残しているのが、武周王朝の皇帝であった武則天という女性です。

武則天は、姓は、名をと言います。

日本では武則天という呼称よりは、則天武后そくてんぶこうと呼ばれるケースが多いですね。これは、武則天が皇帝として即位した事実より、遺詔により皇后の礼で埋葬された事実を優先したからだと思われます。

しかし、最近になって中国では皇帝に即位した事実を優先し、武則天と呼称するようになってきたようです。

前漢王朝呂后清王朝西太后と共に「中国三大悪女」と称されている武則天ですが、ただ単純に悪女と片付けて良いのでしょうか?武則天の経歴を見ながら、検証したいと思います。

― ◇ ◇ ◇ ―


武則天、すなわち武照

利州(現在の中華人民共和国四川省広元市周辺)都督及び荊州(現在の中華人民共和国湖北省南部)都督を任されていた武士かく(尋+獲)と楊夫人(栄国夫人)という隋王朝の一族・楊氏の女性との間に次女として生まれました。

その美貌により14歳の時に太宗たいそう世民せいみんの後宮に入り才人(妃の地位で正五品相当)と呼ばれる女官となります。

初めは唐太宗の寵愛を受けていたのですが、その激情性のある気性に嫌気がさしたのか、次第に唐太宗武照を遠ざけるようになりました。

そんな時、太子であった(のちの高宗こうそう)が武照を気に入り、武照を寵愛するようになります。

しかし、唐太宗が崩御するに伴い、子どもの居なかった武照は出家させられ、尼となります。

やがて、太子・李治唐高宗として即位。太子妃であった王氏が皇后となるのですが、唐高宗しゅく淑妃しゅくひを寵愛するばかりだったので、王皇后蕭淑妃は対立する事甚だしい状況でした。

王皇后唐高宗蕭淑妃に対する寵愛を何とか醒ませるために、嘗て唐高宗武照を気にかけていたのを思い出し、唐高宗武照を逢わせました。

そうすると、唐高宗武照は懐かしさの余り、逢瀬を再燃させたのです。

王皇后武照を還俗させて後宮入りさせたので、武照昭儀しょうぎ(後宮における上から5番目の地位で正二品相当)となり、唐高宗の寵愛は元より、王皇后のご機嫌もとり結びつつ、宮中での地位を固めて行くのです。


※注1
唐代の後宮は、内官・宮官・内侍省の3つの部署で構成されていました。内侍省は宦官たちの職掌先なので、残り2つについて見てみると、

内官とは妃や妾らの事を指し、四夫人(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃。正一品相当)、九嬪(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛。正二品相当)、二十七世婦(婕、、美人、才人。正三品〜正五品相当)、八十一御妻(宝林、御女、采女。正六品〜正八品相当)と身分が分けられています。

宮官は、正六品以下の者で宮中内の職務に携わる女官たちを指します。尚宮(総務的な仕事)・尚儀(礼楽に携わる)・尚服(衣服に携わる)・尚食(食事に携わる)・尚寝(居住空間に携わる)・尚功(工芸に携わる)の六尚に分けられて職務に従事し、また宮正が置かれて、後宮内の不正の取り締まりに従事しました。

※注2
中国の儒教的な風習では、父の後宮に居た者を子の後宮に入れるといった事は考えられない常識なのですが、李氏たち北方の遊牧民族の間にあっては、至極普通にある事な現象な訳です。。



― ◇ ◇ ◇ ―


武照は間もなく唐高宗の子どもを産みます。

最初の狙い通り蕭淑妃から唐高宗の寵愛を除いた王皇后でしたが、子どものできない身の上は必然的に唐高宗の寵愛を武照に奪われてしまいました。

そんな折、王皇后は祈祷師に武照を呪い殺すように命じましたが、この企みを武照は未然に防ぎます。

或る日の事、王皇后武照の産んだ子に会いにきました。子どものできない王皇后としては自分の子どものように可愛がっていたのです。

王皇后が部屋から出たのを見計らった武照は、自分が産んだその子を殺し、その場に放置します。

やがて、唐高宗武照の許を訪ねるや、武照は子どもの死体を見せ、王皇后の仕業だと思わせます。

案の定、唐高宗は激怒し、王皇后の廃后させ、武照を冊立させようと決意します。

ところが、唐王朝建国以来の功臣である長孫ちょうそん無忌むきちょ(ネ+者)遂良すいりょう関隴かんろう支配集団に連なる者たちが、「嘗て父である唐太宗の後宮だった女性」という観念論的理由から異を唱えました。

しかし、同じく功臣である山東官僚系のせき唐高宗が下問したところ、立后は陛下の家庭(=宮中)における私事であり、部外者(=朝廷)が口を挟む理由はないと返答したので立后の方針が決定され、武照は皇后の地位に昇りました。

異を唱えていた長孫無忌●(ネ+者)遂良たちは地方に左遷され、王皇后蕭淑妃武照によって殺されます。

この長孫無忌褚遂良らの失脚により、関隴支配集団は没落してゆきます。すなわち、唐王朝建国の創業者たちは北朝の流れを組む鮮卑せんぴの胡族で武川鎮軍閥だった者たちがその大半を占めていますが、この胡族と漢民族系の貴族系官僚が手を結んだ、いわば胡漢連合政権こそ、関隴支配集団だったのです。


※注3
唐王朝建国時の支配層は、関(関中=陝西省)及び隴(隴西=甘粛省南東部)に基盤を置いていた北周(東魏)の流れを組む胡族の武川鎮軍閥、すなわち関隴貴族集団と、漢族と北斉(西魏)の流れを組む山東系貴族、そして南朝系の流れを組む南朝貴族らで構成されていました。


― ◇ ◇ ◇ ―

皇后となった武照は、生来病気がちなため気が弱く、決断力の乏しい唐高宗から政治向きの相談を幾度となく受けます。

機知に富んだ武照は、的確な意見を述べるので、唐高宗武照抜きでは政務が行き通らなくなる程でした。

やがて、武照唐高宗の意思を越えて、独自に政務を見ようとする振る舞いが目立つようになり、唐高宗を疎んじるようになります。

唐高宗の憤懣は限界に達し、武照を廃后させようと画策しましたが、情報が漏れてしまい、唐高宗武照に口出しできない状況下に追い込まれました。

その結果、武照による垂簾すいれん朝政が執り行われるようになるのです―


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posted by 御堂 at 01:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム
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